秋風の袖に吹きまく峰の雲を翼にかけて雁もなくなり(藤原家隆)
正直申し上げて新古今のなかでも新古今たる歌に解釈を与えるのは腰が引けていた。しかしこれらがシュルレアリスムの作品であると分かってから、ようやく面と向かう心構えが出来た次第だ。 さて今日の歌、『秋風が袖に吹き巻いている峰の...
正直申し上げて新古今のなかでも新古今たる歌に解釈を与えるのは腰が引けていた。しかしこれらがシュルレアリスムの作品であると分かってから、ようやく面と向かう心構えが出来た次第だ。 さて今日の歌、『秋風が袖に吹き巻いている峰の...
昨日の流れで今日の歌を見れば、内容はほとんど理解できると思う。ひとつ解釈を助けるとしたら「雁の涙は色もなし」の件であろう。昨日に戻ってなぜ「雁の涙が野辺を染める」のか考えると、これは雁が悲嘆にくれた「紅涙」を流すからだ。...
古今集にはこんな雁の風情も歌われている。『秋の夜露はそれとして、雁の涙も野辺を染めているのだろうか?』。この歌を理解する前にひとつ質問をしたい、秋になると野辺に咲く草花が色々に染まるが、これは如何なる仕業によるものか? ...
さて、実のところ昨日紹介した慈円の雁は新しい趣向である。和歌の雁と言えば今日のような詠みぶりが常套だ。『秋風に乗って到来した雁の音が聞こえる! だれの玉梓(手紙)を携えて来たのだろう?』、ポイントは二つ。ひとつが“雁の鳴...
「雁に月」、歌川広重の浮世絵でも有名なこの取り合わせはいつ固定化されたのだろう、少なくとも八代集においては見つけるのに難儀する。 今日の歌は慈円、新古今集で見つけた一首だ。『大江山の尾根へ向かっ沈んでゆく月の光は冴えて、...
「松風」は昨日鑑賞したような侘しき情景と「待つ」という語が掛けられることから、恋歌で用いるのが適当だ。今日の詠み人は藤原良経、寂寞の余韻を歌わせたら並ぶものがいない名手による、恋の松風をご紹介しよう。 『待ちぼうけに堪え...
三代集の四季にはほとんど登場せず、千載、新古今集になって好んで詠まれるようになったものには大抵これが影響している、源氏物語だ。「夕顔」「葵」「蛍」そして今日の「松風」、これら古今集などではお目に掛かることがなかった景物が...
『稲穂を吹き返す一陣の風。今にも刈り取られんばかりの豊かな田園はずっと先まで続いていて、(私の旅路に色を添えてくれているようだ)』。風もそして心まで晴れやかな秋の羇旅のワンシーンを思い起させる歌、詠み人は阿仏尼である。た...
雷を別名「稲妻」と呼ぶが、これの理由をご存じだろうか? 辞書を引くと古来、稲妻は「稲夫」と記し雷の光によって稲が実るつまり“稲が妊娠”するという信仰があったらしい。ちなみに本来「妻」も「夫」また「端」も自分から見て他端で...
ちょうどひと月くらい前、私たちは西行による名月賛歌の数々を鑑賞した。伝説の歌人西行が寄せる、月への並々ならぬ愛情をひしと感じたことだろう。ところがである、その中秋の名月をも越えて彼が心酔するものが他あった! なんとそれは...
さて、さまざまに秋の虫の鑑賞してきたが、いずれにも和歌らしい類型化された様式がはっきりと見て取れた。これは西行のように規定の枠を超えた歌人にとってはどうでもいい話だが、柵の宮廷歌人にはいかんともしがたい問題だったのである...
『鳴けや鳴け! 蓬が茂って荒れ果てた杣山のきりぎりすよ。過ぎ去って行く秋はこんなにも悲しいのだ』。「きりぎりす」という名はどうにも言葉遊びが出来なかったらしい、ほとんどの和歌では素直にその音色が詠まれている。ただ今日の歌...
今日ご紹介する秋の虫は「すず虫」だ。童謡「虫のこえ」にもある「リンリンリン」とまさに鈴のような美しい音色は並みいる虫の中でも随一だろう。ちなみにまつ虫は「チンチロリン」、こおろぎは「キリキリキリ」、「スイッチョン」は何だ...
秋の虫、今日は「まつ虫」である。さて、よく古典文学では今の「まつ虫」は「すず虫」を指し、「まつ虫」こそが今の「すず虫」であると言われる。率直に言おう、どっちでもいい。では一緒くたにしても良いのかと問われればそれは困る、和...