秋くれば機織る虫のある辺に唐錦にも見ゆる野辺かな(紀貫之)
枕草子にこんな一文がある。『虫は、すず虫、ひぐらし、蝶、まつ虫、きりぎりす、はたおり、われから、ひお虫、ほたる』。清少納言が「グッとくる」虫の名を挙げたものだが、ここに見える大半は秋の夜、儚げに鳴く虫たちだ。 「すず虫」...
枕草子にこんな一文がある。『虫は、すず虫、ひぐらし、蝶、まつ虫、きりぎりす、はたおり、われから、ひお虫、ほたる』。清少納言が「グッとくる」虫の名を挙げたものだが、ここに見える大半は秋の夜、儚げに鳴く虫たちだ。 「すず虫」...
「鹿」を題材に、和歌の類型とそれを克服しようという試みを鑑賞した。しかしそのもがき苦しみはかえって和歌を袋小路に迷わせてしまったように思える。どうすれば岩盤のように存在する「伝統」を打破できるのだろう!? 『うちの小屋の...
昨日は典型的な鹿の歌をご紹介した。その上で和歌の類型化に対して、古の歌人がいかに挑んだかをご覧に入れよう、俊恵である。『嵐吹く葛一面の野原で鳴く鹿は、葛の葉裏を見たかのように、恨みながらも妻を恋続けているのだろうか』。分...
今日は古今集から「よみ人知らず」による「鹿」の歌をご紹介しよう。『人影ない奥山で紅葉を踏み分けながら鳴く鹿の、その声を聞くと秋の悲しさが募る』。この歌にある和歌の約束事は明白、一つ「鹿は(奥山など)独りで鳴く」、決して奈...
『夕方になると野辺の秋風が身にしみる。あぁ深草の宿で鶉が鳴いているよ』。鶉というと今の人はまず卵を思い浮かべるかもしれないが、その鳴き声といえば鶏ほどではないが割にけたたましい。一見すると歌の風情に合わなそうだが、歌の背...
さて、連日三夕の名歌をご紹介してきたが、今日もしつこく秋の夕暮れをご紹介したい、後鳥羽院だ。『想像してみろ! 真柴のとぼそを押し開けて、俺は一人で秋の夕暮れを眺めているのだぞ』。「とぼそ」とは「枢」と書く、まあ要するにボ...
三夕のトリは定家の夕暮れである。おそらく三首のうちでもっとも知られているのがこれだ。言葉だけを追えば『何もない粗末な風景の方が情趣がある』といういわゆる「わび・さび」の表明であり、この「あるがままの美」がわび茶の方面で多...
三夕の二首目、今日は西行の夕暮れだ。適訳の必要などまったくない単純な歌、悪くもないがそれほどのものか? この歌の価値はやはり、詠み人が西行であるということに尽きる。知られるように西行は武士でありながら若くして仏門に入った...
『寂しさってのは、その色とは無縁であった。真木立つ山の秋の夕暮れよ』。言わずもがな、三夕(さんせき)の誉れ高い寂蓮の一首である。秋の夕日に照る山紅葉は深い情趣を誘う、しかし心の琴線に触れていたのは色ではなく「夕暮れ」その...
一見すると単に「白露」の歌かと思うかもしれない。しかしそうではない、今日の歌にも秋の七草が詠まれている。わからない方にヒントを出すと、詠まれているのは「桔梗」だ。それでもわからない? 仕方あるまい、答えを披露しよう。初か...
和歌に登場する景物はその類型化が徹底している。これまでご紹介した「女郎花」や「薄」などによっても、それが如実に分かったはずだ。「藤袴」の場合、名前と特徴がそれを決めている、つまり着物の「袴」とポプリにした強い「芳香」を詠...
「月」はこれくらいしておいて、今日からは秋の七草をご紹介しよう。まずは「薄(すすき)」だ。ところで秋の月というと大抵セットで「薄」(おまけに団子)が登場してくるが、実のところ和歌で月と薄とが合わせて詠まれることはほとんど...
今日も西行の月、詞書には「八月十五夜」とあり真打登場といった感じだ。『秋はただ八月十五夜を言う名であった、月はいつもと同じ空に澄んで(住んで)いるのだけれども』。和歌で秋といえば、七草にはじまり虫の音、紅葉などなど様々な...
漂泊の歌人、西行がこと花と月とに心を尽くしたことは「願わくば※1」の絶唱からもよく分かる。ただ花が純然たる花であったのに対し、月はそれに収まらない。『面影にあなたの姿を浮かべてしまってから、だしぬけに月は曇ってしまった』...