平家物語を代表する和歌(源頼政、平忠度、建礼門院)

平安時代に書かれた王朝の恋物語、例えば「源氏物語」や「伊勢物語」にはたくさんの和歌が詠まれていることをご存じでしょう。これらの作品はほとんど歌物語といった構成で、和歌がなければ物語自体が成り立たないほど重要な位置を占めています。

ところで鎌倉時代に成立したとされる「平家物語」、このような軍記物語には優雅な和歌の出番はないと思うかもしれません。
ちがいます! 決して多くはありませんが、平家物語でも和歌は変わらずに詠まれています。
恋と戦。主題はまったく違いますが根底を流れる「無常観」は共通、そしてそれを最も良く表すのは、やはり「和歌」であるのです。

今回は平家物語から、特筆すべき「歌人」三人とその歌をご紹介しましょう。

源頼政

和歌ファンであればその名を知らぬ人は少ないでしょう、源頼政です。
勅撰集に59首も採られた名うての歌人、もし百人一首に採られていたら抜群の人気を獲得したであろう、文武を備えた魅力的な人物です。

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頼政は保元として平治の乱を勝者として乗り越え、平氏の世を源氏でありながら三位という高位に昇ります。これは「鵺退治」に伝わるような武勇の誉れもあったでしょうが、歌による“おねだり”が見事に成功したのです。

年闌け齢傾いて後述懐の和歌一首詠みてこそ昇殿をばしたりけれ。

「人知れず大内山の山守は木隠れてのみ月を見るかな」(源頼政)

この歌によつて昇殿許され正下四位にて暫くありしがなほ三位を心にかけつつ、

「昇るべきたよりなき身は木のもとにしゐを拾ひて世を渡るかな」(源頼政)

さてこそ三位はしたりけれ。やがて出家して源三位入道頼政とて今年は七十五にぞ成られける。
(平家物語巻第四 鵺)

ここで詠まれた歌はいずれも自身の不遇を訴えた歌です。二番目の歌の「しゐ」には「椎」と「四位」が掛けられています。武家政権でも回りくどい直訴は変わっていませんね。これらの歌が功を奏し、頼政は従三位に昇り公卿に列することができました。

しかし頼政、平家政権の下で安穏と人生を終えることを良しとしませんでした。後白河天皇皇子である以仁王を担ぎ出し、平家打倒の詔を頂いて謀反を企てたのです。

源三位入道頼政ある夜密かにこの宮の御所に参りて申されける事こそ恐ろしけれ。抑も君は天照大神四十八世の正統神武天皇より七十八代に当たらせ給ふ。然れば太子にも立ち位にも即かせ給ふべきに宮にて渡らせ給ふ御事をば御心憂しとは思し召され給はずや。はやはや御謀反起させ給ひて平家を滅ぼし法皇のいつとなく鳥羽殿に押し籠められて渡らせ給ふ御心をも安め参らせ君も位に即かせ給ふべし 。
(平家物語巻第四 源氏揃)

ところが計画は露見、僅かな勢力での挙兵となりあっという間に窮地に立たされます。
場所は宇治平等院、頼政は宮(以仁王)を逃すのがやっとのこと、自身は痛手を負いそのまま自害して果てました。

三位入道渡辺長七唱を召して我が首打てと宣へば主の生け首打たんずる事の悲しさに仕らうとも存じ候はず。御自害候はばその後こそ給はり候はめと申しければ、げにもとや思はれけん西に向かひ手を合はせ高声に十念を唱へ給ひて最後の詞ぞ哀れなる。

「埋木の花さく事もなかりしに身のなる果てぞ悲しかりける」(源頼政)

(平家物語巻第四 宮御最期)

従三位にまで昇ったのですから、大きな花が咲いた人生だったと言えます。しかし頼政にとっては源氏の本分が果たせなかった口惜しさの方が何倍も勝っていたのですね。
ちなみに宮も落ち延びる途中で敵の矢に当たり亡くなります。源氏の行く末には暗雲が漂っているようですが…

平忠度

平家方にも歌が得意な武人がいました、平忠度(ただのり)です。
忠度は平清盛の異母弟、なんとかの藤原俊成に師事したというのですから、歌に対する熱意のほどが知れます。

平家物語の魅力はキャラクターの豊かさです。「頼朝が首を刎ねて我が墓の前に懸けさすべし」といって憤死した平清盛、「これ乗せて行け具して行け」と地団駄踏んで帰京をせがんだ俊寛僧都、あの源義経を「日本一の烏滸の者かな」と罵った梶原景時など、挙げればキリがないほどのアクの強い人間が描かれています。
忠度もその一人です。武人で歌人というとまず前述の頼政が想起されますが、頼政が老猾達者であるのに比べ忠度は風流に長じいくぶんユニークな人物として描かれています。

この女房薩摩守の許へ小袖を一重遣はすとて千里の名残の惜しさに一首の歌を書き添へて送られける。

「あづま路の草葉をわけん袖よりもたたぬ袂の露ぞこぼるる」(女房)

薩摩守の返事に、

「分かれ路をなにか嘆かん越えてゆく関も昔のあとと思へば」(平忠度)

関も昔の跡 と詠める事は先祖平将軍貞盛将門追討の為に吾妻へ下向したりし事を思ひ出でて詠みたりけるにやいと優しうぞ聞えし。
(平家物語巻第五 富士川)

てな感じで、ある女房と出征の別れを惜しむ歌の贈答を残しています。
忠度は女に「なぁに心配するな!!」と言わんばかりですが、実のところは…

その夜の夜半ばかり富士の沼に幾らもありける水鳥共が何にかは驚きたりけん一度にはつと立ちける。羽音の雷大風などのやうに聞えければ平家の兵共「あはや源氏の大勢の向こうたるは昨日斎藤別当が申しつるやうに甲斐信濃の裾より搦手へや廻り候ふらん。取り籠められては敵ふまじ。此処を落ちて尾張川洲俣を防げや」とて取る物も取り敢へず我先にとぞ落ち行きける。
(平家物語巻第五 富士川)

と、水鳥の飛び立つ音を源氏の大群が押し寄せたのと勘違いして、忠度ら平家軍は大慌てで逃げ帰ってしまうのでした。

しかし平忠度、歌に対する情熱は半端でありません。

もしこの後世鎮まつて勅撰集の御沙汰候はばこれに候ふ巻物の中にさりぬべきもの候はば一首なりとも御恩蒙つて草の陰までも嬉しと存じ候はば遠き御守りにてこそ候はんずらめ。とて日比詠み置かれたる歌共の中に秀歌と思しきを百余首書き集められたりける巻物を、今はとてうち立たれける時これを取つて持たりけるを鎧の引き合はせより取り出でて俊成卿に奉らる。
(平家物語巻第七 忠度都落)

ついに平家が都落ちという時、忠度は歌の師である藤原俊成に一目会い、もしこの世が平和になって勅撰集が編まれることになったら、なんとか自分の歌を入れてほしいと懇願し自身の秀歌集を託しました。

そして平家滅亡(壇ノ浦の戦い)から三年後、俊成によって「千載和歌集」が編纂されます。

その後世鎮まりて千載集を撰ぜられけるに忠度のありし有様云ひ置きし言の葉今更思出でて哀れなりければ件の巻物の中にさりぬべき歌幾らもありけれどもその身勅勘の人なれば名字をば顕されず「故郷の花」といふ題にて詠まれたりける歌一首ぞ「よみ人しらず」と入れられたる。

「さざ浪や志賀の都はあれにしを昔ながらの山桜かな」(平忠度)

その身朝敵となりぬる上は子細に及ばずといひながら恨めしかりし事共なり。
(平家物語巻第七 忠度都落)

俊成はここに、「故郷の花」として一首の歌を採りました。それは「よみ人しらず」の扱いでしたが、確かに忠度の歌が勅撰集に採られたのです。
都は荒れても昔と変わらぬ山桜。和歌ファンとしては、涙なしには語れぬエピソードですね。

さて都落ちした平忠度、その最後はあっけないものでした。

あれはいかによき大将軍とこそ見参らせて候へ「正なうも敵に後ろを見せさせ給ふものかな、返させ給へ返させ給へ、これは御方ぞ」とて振り仰ぎ給ふ内甲を見入れたれば「鉄漿黒」なり。あつぱれ御方に鉄漿付けたる者は無きものをいかさまにもこれは平家の君達にておはすらめとて押し並べてむずと組む。
(平家物語巻第九 忠度最期)

なんとか落ち延びようと懸命の忠度。それを敵の岡部六弥太忠純が見つけて「敵に後ろを見せるのか、戻ってこい! 私は見方だ!」と叫びます。これに忠度はまんまと騙されて振り返ると、なんとその口には立派な「鉄漿黒(お歯黒)」が! これで平家の公達あることがバレてしまい、捕まって首を刎ねられたのでした。

正々堂々の勝負に敗れるのでもなく、ましてお歯黒で平家のお偉いさんだとばれて殺されるなんて、相当情けない結末。これがフィクションであるとしたら、平家物語の作者は相当皮肉屋ですね。

六弥太後ろより寄せて薩摩守の首を取る。よき大将軍討ち奉りたりとは思へども名をば誰とも知らざりけるが箙に結び付けられたる文を取つて見ければ「旅宿花」といふ題にて歌をぞ一首の詠まれたる。

「行き暮れて木のした影を宿とせば花や今宵のあるじならまし」(平忠度)

かれたりける故にこそ薩摩守とは知りてけれ。
(平家物語巻第九 忠度最期)

箙に「旅宿花」という歌が結び付けられたことで、この公達が忠度だと分かります。
武士としては情けない討ち死にでしたが、「せめて花の下で死にたい」と最後まで風流を貫いた忠度だったのでした。

建礼門院

建礼門院(平徳子)は平清盛の娘、高倉天皇に入内し安徳天皇を生んだ平家隆盛のまさにキーマンというべき女性です。
源氏物語などと比べると、やはり軍記物語たる平家物語には女性まして歌を詠むような人物は稀。建礼門院が作品中に残した歌も僅かですが、しかしそれが故か一首一首が重々しく響きわたってきます。それこそ祇園精舎の鐘のように。

壇ノ浦の戦いに敗れ、ついに平家は滅亡となります。
「波の底にも都の候ふぞ」、都から引き連られてきた安徳天皇は二位尼(平時子)と共に入水。建礼門院も自らの子と母を追って、海に飛び込みますが、辛くも生き残り都へと送還されたのでした。

平家物語の「潅頂巻」には出家して大原を余生を過ごす建礼門院が描かれています。

庭には草深く軒には忍繁れり。簾絶え閨顕にて雨風堪るべうもなし。花は色々匂へども主と頼む人もなく月は夜な夜な差し入れども詠めて明かす人もなし。
(略)
昔をしのぶつまとなれとてや元の主の移し植ゑ置きたりけん花橘の風懐かしく軒近く香りけるに山時鳥の二声三声音信れて通りければ女院古き事なれども思し召し出でて御硯の蓋にかうぞ遊ばされける。

「ほととぎす花橘の香をとめてなくは昔の人や恋しき」(建礼門院)

(平家物語潅頂巻 女院出家)

栄華を極めた都の暮らしがまるで嘘のような、落ちぶれたわび住まい。
和歌で「ほととぎす」「花橘」といえば昔の恋人を思い出すモチーフですが、建礼門院が恋慕するのは平家一門皆々の笑顔でしょう。

そんな折、後白河法皇が尋ねてきます。ちなみに建礼門院にって法王は義理の父にあたります。
建礼門院の想像以上のみすぼらしい姿を目にし、法王は涙を流し続けます。

さるほどに上の山より濃墨染の衣着たる尼二人岩の懸道を伝ひつつ下り煩はせ給ひけり。法皇御覧あつて「あれは何者ぞ」と仰せければ老尼涙を押さへて申しけるは「花篋肱に懸け岩躑躅うち添へて持たせ給ひたるは女院にて渡らせ給ひ候ふなり」。
(略)
法皇も哀れげに思し召して御涙塞き敢へさせ給はず。
(平家物語潅頂巻 大原御幸)

建礼門院は自らの身を恥じながらも、院との再会に言葉を尽くします。
そして和歌を二首残すのでした。

女院はいつしか昔をや思し召し出ださせ給ひけん忍び敢へぬ御涙に袖の柵塞き敢へさせ給はず御後を遥かに御覧じ送つて還御も漸う延びさせ給へば御本尊に向かはせ給ひて「天子聖霊一門亡魂成等正覚頓証菩提」と祈り申させ給ひけり。
(略)
女院は御障子に二首の歌をぞ遊されける。

「このごろはいつならひてか我が心大宮人の恋しかるらん」(建礼門院)
「いにしへも夢になりにし事なれば柴の網戸のひさしからじな」(建礼門院)

(平家物語潅頂巻 大原御幸)

両歌とも昔を偲んだ絶唱歌です。
しかし不躾ながら、網戸から「ひさし(庇、久し)」あたりの縁語、掛詞の使い方は微妙です。

そしていよいよラストシーン。

来し方行く末の嬉しう辛かりし事共思し召し続けて御涙に咽ばせ給ふ折節山時鳥二声三声音信れて通りければ女院、

「いざさらば涙くらべんほととぎす我も憂き世にねをのみぞなく」(建礼門院)

(略)
つひには龍女が正覚の跡を追ひ韋提稀夫人の如くに皆往生の素懐を遂げけるとぞ承る。
(平家物語潅頂巻 大原御幸)

ほととぎすとの涙くらべの歌を最後に、憂き世を離れ浄土へと往生を遂げるのでした。
これにて平家物語はエンディングです。

わずか三人ばかりの歌を数首鑑賞したのみですが、平家物語の底流にある無常観が感じられたのではないでしょうか?
その上で、誰も一度は耳にした冒頭の名文句を今一度ご覧になってください。

祇園精舎の鐘の声諸行無常の響あり。娑羅双樹の花の色盛者必衰の理を顕す。奢れる人も久しからずただ春の夜の夢の如し。猛き者もつひには滅びぬ偏に風の前の塵に同じ。
(平家物語巻第一 祇園精舎)

単なる古い美文でしかなかった文句が、ずしりと重みをもって感じられると思います。
無常というような抽象的な観念は散文よりも、やはり象徴的なモチーフによって暗示できる和歌の方が伝わるものです。
平家物語とその和歌、ぜひもっとご覧になってみてください。

(書き手:歌僧 内田圓学)

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