池水に今宵の月を映しもて心のままに我がものと見る(白河院)
平安時代、その時々に帝王というのは存在したが真に傑出した人物は稀にしかいない。仮に右の横綱を「藤原道長」とすれば、左は今日の詠み人「白河院」であろう。道長は万感極まって例の望月の歌※を詠んだが、今日の歌はそれを凌駕する。...
平安時代、その時々に帝王というのは存在したが真に傑出した人物は稀にしかいない。仮に右の横綱を「藤原道長」とすれば、左は今日の詠み人「白河院」であろう。道長は万感極まって例の望月の歌※を詠んだが、今日の歌はそれを凌駕する。...
詠み人は藤原公任、幼くして優秀で後に正二位、権大納言まで昇る。ちなみに従兄弟の道長は公任の「影は踏めないが面は踏める」と豪語してその通りになった。さて今日の歌であるが皮肉たっぷりである。『澄むといってどれほどの年月も澄ま...
『松の根に衣の片袖を敷いて一晩中眺める月を、彼女も見ているだろうか?』。当時、男女が共寝をする際には互いの衣の袖を敷き交わしてその上に寝ていた。あえて説明すると「衣片敷き」とは、どちらか一人が衣を敷いて相手を待っている状...
今日の詠み人三上院といえば、眼病を患いそれを理由に藤原道長に譲位を強いられ、その翌年42歳で崩御するという不遇の人という印象が強い。また百人一首に採られた歌※が、これを強固にもしている。しかし今日の歌はどうだろう、『山の...
今日も「よみ人知らず」による秋の月をご紹介しよう、詞書にはズバリ「八月十五夜」。『月の光はいつもと同じ中秋の名月を、ことさら特別感をもって見るのはその「心」に理由があるのだ』。この歌は極めて冷静で、示唆に富んでいると思う...
春といえば桜、では秋といえば? もちろん「月」である。今でも中秋(旧暦八月十五日)の名月はもてはやされていて、この日はテレビなどでもやたら月見を話題にする。しかし現代人はお気楽なものだ、満月を一目眺めれば満足、秋を堪能し...
古今から新古今に至る過程で複雑さを増した和歌文学であったが、さらに時代を下った玉葉・風雅和歌集になると難しいところがめっきりなくなって親しみやすい。これは新古今とは正反対に風景またその感想が純粋に歌われているためだ。むし...
新古今歌の四季歌が難しいのは、一首が純粋な風景またその感想ではないことに起因する。風景がつまり暗喩であり心象であり悲劇の象徴なのだ。三十一文字という短詩形においてそれを可能とするのは、一語一語の言葉に秘めた含蓄力によるも...
いつから和歌は、こんなに虚しくなったのだろう。それは新古今のひとつ前、千載集がその分岐点だ。『私に寄りかかる儚さは、秋の夕暮れに置く袂の露のよう』。三代集を主として、「露」は秋を秋らしく染める風景のひとつであった。しかし...
二十四節季もそろそろ白露になるころだ。近年では残暑長く、朝露はまだ目に遠いかもしれないが本来は秋も本番を迎える。さて「露」は草木に置くものであり、あくまでも脇役だと思うかもしれない。しかし和歌で「露」は千変万化に立ち回る...
かくも女郎花は愛されていた。女郎花から「女」への連想はついぞやまず、平安時代を渡って男たちは妄想と思慕を続けてきた。ちなみに奈良時代の万葉集では、女郎花にこれといって女を見ていないから面白い。今日の歌は金葉集から顕輔によ...
和歌で特に好まれる色、それは雪月花に代表される「白」だ。次点は「青」そして「緑」あたりだろう、実のところ「黄色」なんてのはあまり人気がない。だから春の「山吹」、秋の「女郎花」などは貴重な黄色い風景なのだ。今日の歌は、女郎...
なんとも牧歌的な歌だ。昨日と同様、女郎花という名から「女」に譬えるという安易なレトリックでもって、「野辺で今夜添い寝しちゃった」というのだからおめでたい。くだらないだろうか? 私は大好きだ。とかく和歌などと言うと無常への...
今日から数首「女郎花(おみなえし)」の歌をご紹介しよう。詠み人は遍昭、僧正という僧官の最上位にありかつ仮名序では六歌仙の一人に挙げられる。そんな一角の人物が詠んだ歌がこれだ、『名前が愛らしくて手折っちまったよ女郎花、よも...