歌塾 月次歌会「晩秋」(令和四年十月)※判者評付き

歌塾は「現代の古典和歌」を詠むための学び舎です。初代勅撰集である古今和歌集を仰ぎ見て日々研鑽を磨き、月に一度折々の題を定めて歌を詠みあっています。
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令和四年十月の歌会では以下の詠草が寄せられました。一部を抜粋してご紹介します。

題「晩秋」

「秋風にいづくともなく露おちて別れの色に身をやつしけり」

判者評:「秋風」「露」「別れ」「色」から定家の「しろたへの袖のわかれに露おちて身にしむ色の秋風ぞ吹く」を踏まえていることが分かる。定家の歌は「恋」だが、この歌の主題は「恋」とも「四季」とも、また主体を「紅葉」とも「人」とも置き換えられて多義性がある。歌を独立してみた場合に下句は意味薄弱だが、本歌のおかげで多様な効能を得ている。

「おく霜に玉の緒こほりむらさきの菊の花こそ目ににほひけれ」

判者評:しもやけ(むらさき)した白菊の歌。「玉の緒」の解釈に難儀するが、ここでは菊の命か。「目」も唐突な印象だが、「緒」の縁語で「結び目」と関連するか? 正直わからない。

「奥山に思ひ入りてとふ鹿見てや萩のうは葉もいろづきぬらむ」

判者評:伊勢物語にある「年を経て住みこし里を出でていなばいとど深草野とやなりなむ」を後に俊成が「夕されば野辺の秋風身にしみて鶉鳴くなり深草の里」と、後日談を妄想して詠んだように、百人一首にも採られた俊成の「世の中よ道こそなけれ思ひ入る山の奥にも鹿ぞ鳴くなる」に後付けしたような儚き秋山の歌。萩を擬人化し、それに心を合わせるように色づくという定石のようで定石でない独特な詠みぶり。「思ひ入りてとふ」が字余りなので「思ひ入りぬる、思ひ入りにし」としたい。

「更級や姨捨山を眺むれば後の月こそ照りまさるなれ」

判者評:「姥捨山」に「後の月(十三夜)」を詠んだ、直しようもない完璧な歌。見事に古典世界に入り浸っているが、反面個性的ではないといえる(これは和歌という文芸では非にはならない)。

「うつろふとは露も思はじもみぢ葉の深むる色に人ぞ恋ひしき」

判者評:紅葉の風景に恋を重ねた歌。「露」と副詞の「つゆ」を掛け、紅葉の色に人の心を見る巧みさが見える。初句は「うつろふと」で構わない、「露は思はじ」だと「露も思わなかった」という意味が出てくるので、「つゆ」は副詞用法を主として音の上で「露」を響かせた方がよい、よって「つゆ思はれぬ」となる。また上句で「心変わりするとは決して思わなかった」として、下句で「色が深くなった(さらに恋しい)」とあるので違和感がある。よって下句を「深き色こそむかしなりけれ」とか。

「たえだえと薪(かまぎ)わる音のわたりたるやまべの秋もふけゆきにけり」

判者評:「砧(ころもうつ)」ならぬ「薪(かまぎ)」わる音で深まる秋を描いた歌。個人的には「砧」よりもこちらの方が情趣を感じる。「わたりたる(連体形)」とあるので、「秋もふけゆく深山辺の秋」とする。

「山紅葉葉ごとにむすぶ白露の色さりげなくうつる秋かな」

判者評:「庭の面(おも)はまだ乾かぬに夕立の空さりげなく澄める月かな」(頼政)を踏まえたか。「紅葉の葉の上においた白露」の色と対比された「うつる秋」が想像されるが、これが歌からはなかなかわからない。であれば、紅葉と白露を対比させてはどうか。例えば…「奥山の色こく染まるもみじ葉に色さりげなく置ける露かな」

「雲の間をうつろふ月の影を追ひ夜もすがらただ君を恋ひわぶ」

判者評:「月」に重ねた「待恋」の歌、ただ題「晩秋(十三夜)」からは遠いか。直すところはないが、「ただ」が少々説明くさいか。例えば入れ替えて「君を恋わぶ秋の夜かな」とか。

「夜を寒み人の恋しくなりぬれど色かはりゆく秋はかなしき」

判者評:夜が寒いので人恋しくなるが、冷淡にも色あせてゆく秋は悲しい。自分に寄り添ってくれない「秋」という季節への無常感だが、上下の続けがらと「飽き」という言葉も響いて、むなしき恋心をうまく想起させている。

「夜もすがら声枯れ鳴らす松虫は我がごと物や悲しかるらむ」

判者評:秋の長夜を一晩中鳴く松虫に、我が身を重ねた歌。「秋の夜のあくるも知らず鳴く虫は我がごと物や悲しかるらむ」(敏行)を踏まえるが「松虫」に「待つ」が掛けられて、恋の心が強く打ち出ている。下句を工夫したいのと、声調を整えたい。「鳴らす」は他動詞なので「鳴く」とする、また「枯れ」を「離れ」と掛けて「夜もすがら声かれがれに松虫の我がごともごとや音にぞなきける」。

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