いい歌とは? 和歌が生む「美しさ」を知る

和歌において、いい歌とはどんな歌か? 答えをシンプルに言うと、、 いいと感じた歌が「いい歌」なのです! すみません、身も蓋もないですね……

しかし和歌(短歌)は三十一文字というわずかな字数で生産されるがゆえに、ほとんどの解釈を観賞者にゆだねることになるため、このような答えにならざるを得ないのです。短歌や俳句が「第二芸術」と揶揄されるのもやむなしです。

ちなみにこの「第二芸術論」ですが、そもそも俳句や短歌を「芸術」だなんて言っているのは、それを生業としている句会や結社の上席の詭弁に過ぎません。元来歌は宮廷の遊びとして発展したものです。こういうものを盲目的に「芸術だ!」なんて崇めるのは大きな間違いです。
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閑話休題。
ひとえに「いい歌」と言っても、私たちは多様な“いい”に揺さぶられていることが分かります。例えば斎藤茂吉の「赤光」には“人生のリアリティ”に、与謝野晶子の「みだれ髪」には“命がけの恋”に、心からの“いい”を感じるはずです。

では古典和歌といえば? それは一言で「美しさ」の“いい”に集約されます。

和歌は一千年の間、星の数ほどの歌人・歌集に詠まれましたが、ほとんどは四季折々の自然や恋に得られる「美しさ」が詠まれている点で一貫しています。そしてこれらは「完全な美しさ」ではなく、未熟であったり喪失しているという「不完全な美」なのです。

つまり和歌とは、「自然に感じられる不完全な美の様相を、詞で現出せしめたもの」と言い換えることができます。私たちが和歌に感じる“いい”の本質はまさにここにあるのです。

さらに和歌を奥深くしているのが、「不完全な美」を創造する際の手法が多様であることです。私たちは和歌といえば単に古臭いものと一括りにしてしまいがちですが、その実、時代ごとにトレンドがあり絶えず進化を続けていました。和歌が一千年以上も続いたのは、正当な理由があるのです。

それでは代表的な歌集に得られる、「美しさ」の諸処を探ってみましょう。

万葉集

万葉集には仁徳天皇から孝謙天皇の御代まで、およそ400年間、4500首の歌が収められています。とうてい一括りに出来るものでありませんが、基本的に「写生」つまり見たままの自然美を歌にしているのが特徴です。

万1418「いしばしる垂水の上のさわらびの 萌えいづる春になりにけるかも」(志貴皇子)
万1496「我が宿のなでしこの花盛りなり 手折りてひとめ見せむ子もがも」(大伴家持)
万1555「秋立ちていくひもあらねばこの寝ぬる 朝あけの風は手もと寒しも」(安貴王)

このように単純で分かりやすく、詠まれた叙景を容易に再構築できるのが万葉歌です。だからと言って、けっして歌のレベルが低いわけではありません。明治の革新的歌人に限らず、常に万葉歌は歌の規範として尊ばれました。
情景には手を触れず見たままを絶唱する、私たちはストレートな自然美に“いい”を感じずにいられないのです。

古今和歌集

古9「霞たちこのめもはるの雪ふれば 花なきさとも花ぞちりける」(紀貫之)
古26「青柳の糸よりかくる春しもぞ みだれて花のほころひにける」(紀貫之)
古170「かわ風の涼しくもあるかうちよする 浪とともにや秋は立つらむ」(紀貫之)

いかがでしょう? 「見立て」「掛詞」「縁語」……。古今集では、人間が開発した「詞」という力を持って、積極的に美を生産していることが分かります。万葉集とは真逆のアプローチですね。いわば知性によって組み立てられた詞のパズル。古今集ではこのパズルが解け、ふと脳裏に結ばれた自然美に“いい”を感じることができます。
これに共感できる人間は、もしかしたら限られるかもしれません。しかし、古今集の美こそが日本美の源泉! 文化、歴史、宗教さまざまな知見を動員して、こちらから美を獲得に行きましょう。

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新古今和歌集

新38「「春の夜の夢の浮橋途絶えして 峰に分かるる横雲の空」(藤原定家)
新247「夕暮れはいづれの雲の名残とて 花たちばなに風のふくらむ」(藤原定家)
新363「見渡せば花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮れ」(藤原定家)

洗練された詞のリズムは聴いているだけでも心地よく、それでいてほのかな叙景も想像できる。しかし、それを追ってもなかなか本質に辿り着けない。このもどかしさはなんなんでしょう?

平安朝以来、徹底的に鍛えられた和歌。新古今にもなると表に詠んだ叙景の裏で複雑な叙情を重ねるなんてことを平気でします。これを実現するのが本歌取りだったり、そこから起こるレトリック。ただ古今のパズルは答えがある「直喩」であったのに対し、新古今のそれは答えがない「暗喩」です。

「象徴のパズル」には知性だけでなく感性も要求されます、新古今がもどかしいというのはこういうことですね。分かるようで分からない、分からないようで分かる。この複雑さに根ざすのが新古今が編み出す、幻想的な自然美なのです。

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玉葉和歌集

玉83「梅の花くれなゐにほふ夕暮れに 柳なびき春雨ぞふ降る」(京極為兼)
玉419「枝にもる朝日のかげのすくなさに 涼しさふかき竹の奥かな」(京極為兼)
玉944「さゆる日の時雨ののちのゆふ山に 薄雪降りて雲ぞはれゆく」(京極為兼)

なんだか歌の叙景がそのまま再生できる歌です。玉葉集は先の新古今よりも新しい歌集ですが、うって変わって難しいところがありません。それもそのはず、玉葉集は「写生」を重んじたのです、いわば万葉集に還ったのですね。でも玉葉の方が洗練されているように感じる、不思議です。

これは万葉歌が眼前の風景を素朴に写生していたのに対し、玉葉歌では端から美しさを得るために、叙景も詞も意識的に選び抜いているためです。単純な写生ではないんですね、かといって掛詞や本歌取りといったパズルは用いていない。ある種、玉葉集は万葉集と古今・新古今集のいいとこ取りであり、和歌が生む「自然美」の一つの到達点だと言えます。

ひとえに和歌の美しさといえど、多様かつ奥深いものであることがお分かりいただけたことでしょう。現代の短歌や俳句が写生と若干の風刺に凝り固まっている分、なおさら和歌に凄みを感じます。

みなさまも和歌を鑑賞する際はぜひ、この美の諸処を意識してください。確実に歌の理解が広がるはずです。

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(書き手:歌僧 内田圓学)

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