日本人なら覚えたい有名な和歌・短歌 グレイテスト・ヒッツ10!

「やまとうたは、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」
古今和歌集(仮名序)

紀貫之による古今和歌集の仮名序、冒頭の名文句です。

人の心からなる和歌は、まさに数えられないほど詠まれてきました。
今回はその膨大な楽曲の中から、和歌ファンのみならず多くの日本人に絶大な影響と感動をもたらした超有名歌、グレイテスト・ヒッツを10首選出してみたいと思います!

この記事の音声配信「第三回 和歌のグレイテスト・ヒッツ!」を
Youtubeで聴く
iTunes Podcastで聴く

1.「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」(須佐之男命)

天皇家の祖神、天照大神の弟であり、八岐大蛇伝説で有名な須佐之男命(スサノオノミコト)の歌です。須佐之男命が八岐大蛇を退治した後、櫛名田姫との新婚の宮を建てる際、何重の雲が立ち上ったのをみて詠んだとされています。

→関連記事「和歌の聖地! 須我神社 初詣レポート
→関連記事「建国記念の日に知っておきたい! 天皇と和歌

この歌は和歌の起源であると、紀貫之による古今和歌集の仮名序では記されています。

「あらからねの地にしては、須佐之男命よりぞおこりける。ちはやふる神代には、歌の文字も定まらず、すなほにしてことの心わきがたかりけらし。人の世となりて、須佐之男命よりぞ、三十文字あまり一文字はよみける。かくてぞ花をめで、鳥をうらやみ、霞をあわれび、露をかなしぶ心言葉多く、さまざになりにける」
古今和歌集(仮名序)

西洋クラシック音楽は古典派によって「ソナタ」という基本形式が確立されたことで、交響曲や協奏曲など今に伝わる偉大な作品が生まれました。
和歌も「三十文字あまり一文字」という形が定まり、ここに大和人共通の文化・文芸としての歴史が始まったのです。これは和歌史における金字塔というべき一首です。

2.「ひむがしの 野にかぎろひの 立つ見えて かへり見すれば 月かたぶきぬ」(柿本人麻呂)

東の野に陽炎が立ち太陽が今まさに登ろうとするとき、振り返れば月が傾いている。
雄大で写実的な詠みぶりは、まさに万葉集の代表といった風格。詠み人は紀貫之や藤原俊成をして「歌の聖」と讃えられた柿本人麻呂です。

→関連記事「柿本人麻呂 ~みんなの憧れ、聖☆歌人~

人麻呂は和歌史における最も偉大な人物です。宮廷歌人として君侯に捧げる優美な歌はもちろん、自らの妻に寄せた悲劇的絶唱歌などあらゆるジャンルの歌を残しました。それは先の写実的な万葉歌風もあれば、観念的で複雑ないわゆる古今風の歌もある。まさに歌の聖にふさわしく、今に残る和歌という文芸のほとんどを一人で形作ったのです。例えるなら音楽の父、バッハが成した偉業に匹敵するでしょう。

ちなみにこの歌、壮大なる自然に登る太陽に軽皇子を、沈む月に亡くなった皇子の父である草壁皇子が譬えられています。草壁皇子は天武天皇の息子でありながら、即位することなく28歳の若さで早世してしまいました。人麻呂は若々しい軽皇子に次時代を感じながらも、無念の草壁皇子に心を寄せているのです。

→関連記事「万葉集の引力! 柿本人麻呂の挽歌と六皇子

3.「唐衣 着つつなれにし つましあれば はるばるきぬる 旅をしぞ思ふ」(在原業平)

これは六歌仙の一人でもあり、稀代のプレイボーイ在原業平の歌。
京からの長い旅中、愛しい妻を思いを綴った歌です。

→関連記事「在原業平 ~愛され続けるプレイボーイ~

詠まれたのは伊勢物語の中でも特に有名な第九段の「東下り」のワンシーン

「三河の国、八橋といふ所にいたりぬ。その沢に、かきつばたいとおもしろく咲きたり。かきつばたといふ五文字を、句の上に据ゑて、旅の心をよめ」
伊勢物語(第九段)

とあるように、各句頭をよむと見事に「か・き・つ・ば・た」となっています。これは「折句」といわれる技法です。
→関連記事「和歌の入門教室 折句

加えて掛詞が4箇所
「着」と「来」、「馴れ」と「慣れ」、「褄」と「妻」、「張」と「遥」
→関連記事「和歌の入門教室 掛詞

「衣」の縁語が4箇所
「き」、「なれ」、「つま」、「はる」
→関連記事「和歌の入門教室 縁語

さらに枕詞「唐衣(からころも)」
→関連記事「和歌の入門教室 枕詞

おまけに掛詞でつながる序詞
「唐衣 着つつ」→「なれ」
→関連記事「和歌の入門教室 序詞

と和歌の修辞法が満載、あのパガニーニだって腰を抜かすような超絶技巧です。

4.「花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに」(小野小町)

言わずと知れた六歌仙、小野小町の歌です。百人一首歌としても有名ですが、この歌は古今和歌集いや和歌そのものを象徴する歌といって過言でないでしょう。
花の中の花、桜。それは美の極致たる存在。しかし無常は必定、桜とて老いて散る運命。和歌とはこの無常の美を捉えようとする運動ですが、小町の歌はそれを見事に達成しています。

藤原定家はその歌論で「余情妖艶」こそが歌の核心であるとし、その規範を小野小町に求めました。メンデルスゾーンの「ヴァイオリン協奏曲」に通じる洗練優美な女性的旋律、これこそが和歌の到達点であるのです。

→関連記事「小野小町 ~日静かに燃える! 美しき恋歌の名手~
→関連記事「余情妖艶と小野小町

5.「東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな」(菅原道真)

菅原道真は大宰府天満宮に祀られ、学問の神様として有名です。その学識の高さから宇多天皇に重用され、醍醐朝では右大臣にまで昇進しました。しかし急激な出世は反感を招き、ついには大宰府へ左遷、その地で没します。
この歌は太宰府への出立のおり屋敷内の梅の木に語りかけるように詠んだものだといいます。ちなみにこの梅、ご主人を追いかけて遠く大宰府まで飛んでいきました! これを「飛梅伝説」といいます。三大歌舞伎の一つ「菅原伝授手習鑑」はこの伝説を主題としています。

道真は漢様と和様を吸収し、和歌に新しい風を吹き込みました。譬えるならボヘミアとネイティブ・アメリカンの音楽を接続したドヴォルザークの交響曲第九番。自らの漢詩集を何冊も起こすほど、漢詩に長けた道真は、漢詩の心を和歌で育みました。道真の意見によって遣唐使が廃止されて後、日本の「新世界」つまり国風文化は加速していくのです。

→関連記事「菅原道真 ~悲劇の唇が吹くIn A Silent Way~

6.「袖ひぢて むすびし水の こほれるを 春立つけふの 風やとくらむ」(紀貫之)

古今和歌集の代表的選者、紀貫之による古今和歌集の春上、第二首目の歌です。
季節は夏、袖を濡らしすくった水が冬凍ったのを、立春の風が溶かしているだろか? この一首で夏、冬、春と四季が一めぐりしています。

勅撰和歌集の二大テーマは「四季」と「恋」です。このうち四季は春夏秋冬の移ろいの、恋は初恋から別れるまでの過程に準じて歌が並んでいます。撰者の仕事には歌の選定もありますが、この配列こそ肝であり腕の見せ所であったのです。

しかし本来、四季の移ろいなんてとりとめのないもの。それを貫之達は「美」という物差しで人工的に分類してみせました。これは音階(スケール)と同じです、音階もまた音楽を作るために一定の基準で音を分類したものです。
音階を作ったのは作曲家ではありませんでした、ピタゴラスやメルセンヌなどの数学者であったのです。貫之もおそらく芸術家というよりも理知的な学者肌であったと思います。

→関連記事「紀貫之 ~雑草が咲かせた大輪の花~
→関連記事「日本美の幕開け! 年内立春の歌に紀貫之の本気をみた

7.「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の かけたることも なしと思へば」(藤原道長)

時は西暦一千年、「源氏物語」、「枕草子」など女流文化華やかなりし頃、左大臣藤原道長はその長女彰子を一条天皇のもとへを女御として入内させます。一条天皇にはすでに先立ちの后定子がいましたので、一帝二后という過去に類のない状況を生み出したのです。ちなみに彰子には紫式部が定子には清正納言が女房として仕えていました。
道長の策略はその後も続きます。次女の妍子を三条天皇の中宮に、四女の威子を後一条天皇の中宮にするという「一家三后」と謀略の限りを尽くします。中臣鎌足に始まる藤原摂関家は、不比等、良房をへてついに絶頂を極めるのです。これは帝王へと昇りつめた藤原道長その人の歌です。

悲壮感をしっとり歌い上げるのが本筋の和歌にあって極めて珍しいこの歌。雄大な全能感はワーグナーの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」がピッタリでしょう。まさに平安のマイスタージンガーたる道長が朗々と歌い上げる様子が目に浮かびます。

8.「瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ」(崇徳院)

激流の人生。あなたと引き裂かれてもなお、いつか逢いたいと願う。
これは自身が勅撰を命じた「詞花和歌集」の「恋」にある歌です。でもこの歌を、素直に恋歌と捉える人は少ないでしょう。

崇徳院は並みいる皇族の中でも、最も悲劇的な人物です。院は父である鳥羽上皇から「叔父子」つまり鳥羽上皇の中宮である待賢門院と祖父である白川上皇の子であると疎んじられていました。
養子である体仁親王(近衛天皇)が即位する際、譲位の宣命に「皇太弟」とあったため院政を行うことができず、実権のない上皇として長く座し、近衛天皇が崩御すると院の子である重仁親王の即位を画策しますが、結局それは叶わず後白河天皇が即位したのは周知のとおりです。

鳥羽上皇が崩御すると、天皇家、摂関家、武家それぞれが抱えていた内紛がついに明るみにでます。保元の乱です。これに敗れた崇徳院は讃岐に流され、二度と都の地を踏むことはなく乱の八年後四十六歳で崩御したのです。
「われても末に 逢はむとぞ思ふ」。歌にまで詠んだ願望はついに叶いませんでした。

讃岐における院のエピソードが「保元物語」が描かれています。

「彼の科(とが)を救はんと思ふ莫太の行業を、併三悪道に投こみ、其力を以て、日本国の大魔縁となり、皇を取て民となし、民を皇となさん」とて、御舌のさきをくい切って、流る血を以て、大乗経の奥に御誓状を書き付けらる」
保元物語

崇徳院は魔王に成り果てたのです!
これはまさにシューベルトの「魔王」、身の毛がよだつ旋律に救いようのない物語。一度聴いてしまえば脳裏から離れません。

→関連記事「崇徳院 ~ここではないどこかへ~

9.「願わくば 花の下にて 春死なむ その如月の 望月のころ」(西行)

鳥羽院の北面武士として仕えたその人は俗名を佐藤義清といい、出家して西行と名乗りました。藤原俊成を中心とする九条家歌壇とも親交が厚く、新古今和歌集には最多の九十四首採られるなど、平安末期における最重要歌人です。彼が貫いた数寄の生き方は松尾芭蕉などの俳人をはじめ、多くの日本人に影響を与えました。

この歌は、僧でありながら最後まで理想の「美」を追い続けてきた自分自身への「レクイエム」。それは有名なモーツァルトのではなく「永遠の至福の喜びに満ちた開放感」と語ったフォーレのそれです。

藤原定家の私家集「拾遺愚草」によると、西行は願いどおり文治六年、桜満開の望月(満月)の日に滅したといいます。この時、西行は伝説となったのです。

→関連記事「西行 ~出家はつらいよ、フーテンの歌人~

10.「見渡せば 花も紅葉も なかりけり 浦の苫屋の 秋の夕暮」(藤原定家)

秋の夕暮に寄せる寂寥感は、今も昔も変わりません。
三夕の和歌としても知られるこの歌は、「新古今和歌集」、「新勅撰和歌集」選者のであり後の歌道家(二条、京極、冷泉)の礎を成した歌人、藤原定家の歌です。茶人千利休の師であった武野紹鴎が記した「南方録」というわび茶の秘伝書によると、定家のこの歌こそが「わび」の心であるとしています。

ありやなしやの美しさ。
全編がほぼピアニッシモで演奏されるドビュッシーの「ベルガマスク組曲 月の光」の余情です。

→関連記事「藤原定家 ~怒れる天才サラリーマン~」
→関連記事「三夕の歌 ~秋の夕暮れの美~

アンコール.「春の夜の 夢の浮橋 とだえして 峰にわかるる 横雲の空」(藤原定家)

本歌取りを得意とした定家の歌は、絵画的また物語的であると言われます。この歌はその最たるものでしょう。壬生忠峯の「風ふけば 峰にわかるる 白雲の たえてつれなき 君か心か」を本歌に取りつつ、「夢の浮橋」という源氏物語の最終帖の世界をも意識して再構築しています。

→関連記事「和歌の入門教室 本歌取り

定家は本歌の世界観を幾重に掛け合わせて、この世にあらぬ複雑繊細な音色を奏でてみせました。「牧神の午後への前奏曲」に感じた官能的な夢想感。定家とドビュッシーは相通じるところがあります。

→関連記事「和歌とは?
→関連記事「比べてわかる和歌と短歌の違い!

(書き手:歌僧 内田圓学)

和歌の型(基礎)を学び、詠んでみよう!

代表的な古典作品に学び、一人ひとりが伝統的「和歌」を詠めるようになることを目標とした「歌塾」開催中!

季刊誌「和歌文芸」
令和六年秋号(Amazonにて販売中)