和歌という行為の本質、「いろは歌」と「三法印」

いわゆる「歌の父母」をご存知でしょうか?
紀貫之は古今集の仮名序に「難波津」と「安積山」を挙げ、歌の父母でありまた書の手習いとしても定番であると記しています。今でも「難波津」は百人一首(競技かるた)の序歌として親しまれていますよね。

「難波津に咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花」(王仁)
「安積山影さへ見ゆる山の井の浅き心をわが思はなくに」(陸奥国前采女)
この二歌は歌の父母のやうにてぞ手習ふ人のはじめにもしける
(古今和歌集 仮名序)

しかし私は「いろは歌」こそ、本質的な意味で「和歌の父母」であると考えています。


「色は匂へど散りぬるを 我が世誰そ常ならむ
 有為の奥山今日越えて 浅き夢見じ酔ひもせず」(いろは歌)

歌意の詳細は他に譲りますが、要するにいろは歌は「諸行無常」や「涅槃寂静」という仏教の根本的な理念である「三法印」を言い表したものだとされています。※三法印には加えて「諸法無我」があります

ここからは完全に私の個人的な考えですが、古典和歌、詩歌という行為の本質にはこの「三法印」の理念があるとみています。

「諸行無常」は説明不要ですね。この世の森羅万象は時間によりすべて「流転」するという真理です。無常が時間的であれば「諸法無我」は空間的な真理です。我(自分)を含めてこの世の存在(モノ)はすべては実体を有さず、「縁」によって「相対的」に生じているという意味です。
そして「涅槃寂静」。ブッダはこの「無常」と「無我」の真理を理解すれば、穏やかな悟りに至ると教えました。

諸行無常、諸法無我、涅槃寂静。
この三法印こそが、和歌を詠むという行為の本質なのです。

前述のように仏教真理に由ると、一人ひとりの人間は時間的・空間的に確固たる位置がない、極めて不安定で瞬間的な存在であると分かります。瞬間的とは要するに関係(コネクション)がない、端的に言い換えれば「孤独」であるということです。
「孤独」。まず知るべきは人間とは残らず孤独の存在であるということです。そして孤独を知って初めて、人間に「文芸」という道が開かれるのです。

孤独である人間は切望します、なんとかして自分をそして自分の生の「今」を実感したい! と。
しかし人間は自分自身で自分の「今」を直接的に知ることは出来ません。なぜなら先に述べたように「流転・相対」の虚しき存在であるからです。しかし間接的な手段によって「今」を知ることはできます。同じ時間・空間を共有する自分以外の「モノ」と「対照」し、時間と空間を一時的に停止させるのです。

「モノ」の端的な例が自然です。春夏秋冬、四季の移ろいに自分を重ねることで自分の「今」を実感するのです。また古の歌人や遠き故郷、これらのように時間と空間のいずれかがズレていたとしても、思慕の念を強くすれば同じく対照化することができます。

このようにして「今」を実感して思わず漏れ出でる「詠嘆」、これを書き留めた言葉こそが私たちが知る「和歌」という文芸なのです。そして自らの和歌に満足がいったとき、その人間は悟りの境地「涅槃」に到達するでしょう。

お分かり頂けたように、和歌などの短詩形文学はその字数よりも僅かな世界しか捉えられません。しかし不思議にも、一首に言説をはるかに超えた深遠な感情を抱くこともありますよね。
「瞬間にある永遠」。いい歌、真に価値のある歌の判断はまさにこれで決まるのです。

拙く荒削りの解説で恐縮ですが、和歌と三法印の関係を説明させて頂きました。
さて、実は先に述べた「自分とモノとの対照化」にはバリエーションがあり、これが歌の「風体」の決め手になっています。和歌と俳諧で説明しましょう。

古典的な和歌の基本スタイルは「モノ×自分」(序詞、見立てなど)です、これの対照された和歌というものは作歌も鑑賞も比較的容易です、なんとなればモノ自体が類型化されていますし、自分の心(感情)そのものが表明されているからです。

芭蕉を代表する俳諧は「モノ×モノ」(配合)でこれを行っているのですが、実のところ理解は容易にいきません。感情の吐露はありませんし、頼るべきモノ自体が詠まれた場面や詠み人の経験によって意味合いが変わってきます。そもそも俳諧は連歌という連衆での付け合いから起こりました、ですから仲間内の場あって初めて真に理解できるという文芸なのです。
ですから俳諧を和歌のように正しく理解しようというのはそもそも間違いなのです。私たちも連衆の和に混ざっているつもりになって、令和の時代から元禄を偲びモノとモノの「連想」を楽しみましょう。

ついでに加えると詩歌の前提となる「孤独」の捉え方も和歌と俳諧で異なります。古典的な和歌は孤独をシンプルに憂うのみですが、俳諧ではポジティブに楽しんだりもしています。このような違いが、古典和歌と俳諧の印象を180度変えているのです。

私たち令和和歌所は「新しい古典和歌の歴史を作る!」を標榜しています。このように和歌と俳諧の違いを明確にすることが、新しい和歌に繋がる重要なヒントになると考えています。

(書き手:歌僧 内田圓学)

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