令和六年 年頭所感「歌道をひらく」~道とは、美を求める先人の足跡~

明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。
さて、昨年までの活動も踏まえ、今年の令和和歌所の目標をこちらにしました。

「歌道をひらく」

またずいぶん大仰なテーマを… と思われたかもしれません。しかしわたしは本気です。

ところでまず「道」とはなんでしょうか?
茶道、書道、剣道…、ちょっと見渡しただけでもいろんな「道」があることがわかります、はたしてその共通点とはなにか。
人それぞれ解釈があるとは思いますが、肝要なのはそれぞれの「道」は先人が切り拓いてきたということ。つまり「道」とは先人の足跡であり、これを一心に辿るということが「道」の本質なのです。
これを「歌道」でいうなれば、第一には初代勅撰集である「古今和歌集」を慕いこの歌風に倣うということになるでしょう。

ではこの「道」の果て、すなわち目指すべき地平・ゴールとはなにか。果てがなければ道に迷うこともあるでしょうし、先人が見つめてきた眼差しの先も理解できません。

道の果て… その端的な世界は「美」です。歌道はもちろん茶道も書道もすべて「美」を志向する活動です。実のところ人間いや生物は原始的な欲求として「美」を志向しています。美にいかに耽溺できるか… これこそが人生の豊かさを決するのです。

しかし「美」とは近代的な匂いが強い言葉ですね。わたしこれを「あはれ」と言い換えます。道を行くとは、人生を、つまらぬ日常を「ああ」というしみじみとした情感で満たそうという、野心的な活動なのです。(俊成はこの言い表しようもない気分をなんとか言語化しようと「幽玄」「艶」「優」などと表現しました)

この「美」の具体化が、たとえば茶道では所作といった一定の振る舞いです。ではわたしたちの道である「歌道」ではなにか。それは「詠む」「書く」「歌う」です。すなわち今年の目標である「歌道をひらく」とは、「詠む」「書く」「歌う」の一連をもって、偉大な先達から連綿と受け継ぐ歌世界を完成させようという壮大な企てであるのです。

一、詠む
これまで重視してきた根本的な活動です。
いにしえの詠み人に憧憬を寄せ、古今和歌集をはじめとする古歌に倣い、古典ではなく現代に生きる「和歌」を詠みます。

一、書く
詠草の提出において、紙にかなで書くことを求めます。理想は平安古筆の代表である「高野切れ」です。現代的な書は認めません。

一、歌う
和歌はまさに「歌」であることを忘れてはなりません。目ではなく耳で存分に味わうため、歌会においては「披講」を必須とします。

「詠む」「書く」「歌う」によって、和歌は心技体が結集した茶の湯にもまさる総合文化・芸術となるでしょう。しかもわたしたちはこの「総合美」に傍観者・観客としてではなく、当事者として参加するのです。「道」はだれか特別な才能に恵まれた人間だけの占有物ではありません。先人に憧憬を寄せこれとともにありたいと思った瞬間、だれもが同じ道をゆく友、歌詠み人となれるのです。

さあともに、歌道をひらきその瞬間の目撃者となりましょう。

※現代のわたしたちの活動も、後世の人間から見れば「道」における足跡のひとつであるわけです。そのことを肝に銘じ、責任感をもって歌道の開拓を進めたいと思います

~偉大なる先達、貫之のことばに思いを馳せて~
人麻呂なくなりにたれど歌のこと留まれるかな。たとひ時移り言去り楽しび哀しびゆきかふとも、この歌の文字あるをや、青柳の糸絶えず松の葉のちり失せずして、まさきのかづら長く伝はり鳥のあと久しくとどまれらば、歌の様をも知り事の心を得たらむ人は、大空の月を見るがごとくにいにしへを仰ぎて今を恋ざらめかも
(「古今和歌集仮名序」紀貫之)

(書き手:内田圓学)

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