「歌会始の詠進鑑賞」佳子内親王 ~その作風と題詠のポイント~

前回の眞子内親王につづき、今回は佳子内親王が歌会始で詠まれたお歌を鑑賞してみましょう。佳子内親王は二十七年の詠進を手始めに、令和二年現在、計五首の短歌が宮内庁のWEBサイトで拝見できます。

→「歌会始 お題一覧

平成二十七年歌会『本』
「弟に本読み聞かせゐたる夜は旅する母を思ひてねむる」

平成二十八年歌会『人』
「若人が力を合はせ創りだす舞台の上から思ひ伝はる」

デビュー作とその翌年のお歌です。いかがでしょう? 「…思ひてねむる」、「…思ひ伝はる」とされた結句は極めておぼつかなく、内容も説明的で残念ですが短歌になっておられません。

しかし平成二十九年の歌にはさっそく進化をお見受けします。

平成二十九年歌会『野』
「春の野にしろつめ草を摘みながら友と作りし花の冠」

この歌には心地よいリズムがあります。詞書きには幼少期の思い出云々とございますが、私はこの歌に式子内親王の名歌を僅かに感じ得ました。

「忘れめや葵を草にひき結びかりねの野辺の露のあけぼの」(式子内親王)

平成三十一年歌会『光』
「訪れし冬のリーズの雲光り思ひ出さるるふるさとの空」

令和二年『望』
「六年間歩きつづけし通学路三笠山より望みてたどる」

これら、近年のお歌には声調の麗しさがいっそう響いています。ちなみに令和二年の歌にある「三笠山」ですが、奈良の春日山のことではなく赤坂御苑にある同名の一角を指すようです。これに平成三十一年の「思ひ出さるるふるさとの空」を重ねると、見事に安倍仲麿の名歌が浮かび上がりますね。

「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも」(安倍仲麿)

まさか狙ってのことなのでしょうか??

さて僅かですが鑑賞したように、 歌人として佳子内親王は確かな「耳」を備えておられます。しかし僭越ながらその内容は、眞子内親王同様に平凡であると言わざるを得ません。

これには原因がはっきりしています。題詠の「題」に囚われすぎているのです。
歌会始は「題詠」ですがこの基本ルールを意識するあまり、題に相応しい過去のご自身の経験を半ば強引に材料とするため、歌が感想文になってしまい結果、歌ならぬ歌に仕上がってしまうのです。

しかし題詠でいい歌は生まれないのでしょうか? そんなことはありません。平安時代の宮中の歌合せも多くが題詠でした、それでもバラエティーに富んだ名歌は沢山残っています。それは「題」ではなく作者の側が変化をして、題詠というマンネリを打ち破っているのです。例えば古典和歌では男性が来ぬ人を待ち望んで袖を濡らす女心や、都の大貴族が草庵での侘しい独り寝の様を詠んだりするのはざらです。つまり自分ではない別の人間になりきって多様な人格、風景を歌に詠んでいるのです。

「歌」は自分の心を内を明らかにするものと思われがちですが、古典和歌はほとんどそうではありません。百人一首の恋歌などに胸トキメク現代女子もおられますが、その実和歌において歌人の本心はどこにあるか分かりやしないのです。これが「和」の遊びで鍛えられた和歌と、「個」の内面に固執する現代短歌との大きな違いです。

ともかく、固定的な題詠であっても、別人格になりきることで多様な歌が詠める術があることは知っておきたいですね。

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(書き手:和歌DJうっちー)

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