あかね歌会 令和六年三月「憚人目恋」※判者評付

令和和歌所では二条流和歌の伝統を受け継ぎ、いにしえの和歌を継承し令和の世にふさわしい「歌集」を編むことを目指しています。二十三代の集に採られた歌は除きますが、空飛ぶ鳥が網を漏るように、水に住む魚が釣針を逃れるように… 撰集に漏れた優れた歌を集め、わたしたちが詠んだ令和の和歌と合わせて、あたらしい和歌のアンソロジーをつります。
「あかね歌会」はそのための研鑽そして歌を集める場です。題を設け、月に一度のペースで歌を詠みあい批評を行っています。ぜひみなさま、奮ってご参加ください。

和歌の型(基礎)を学び、詠んでみよう!「歌塾」
和歌を詠みあい、評し、継承する「蒐(あかね)歌会」

令和六年三月の歌会では以下の詠草が寄せられました。一部を抜粋してご紹介します。

判者詠草

しくしくもおもほゆるかなさねかづらくるくるかよへ人に知られで(摂津)
葵ぐさ枯れし鄙(ひな)にし恋すれば人目もかれず逢ふ日はるけし(木喬)
宵々にまもる関守こころあらばせめて築地のひまは避かなむ(圓学)

みなさまの詠草

「初雁のなきこそわたれつつみつつゆく隠れ沼の下にかよひて」

判者評:初雁のなきわたる。隠しつつ吹く秋風の下に通って。初雁に自らを重ねた歌。三句目以降、「つつみ(慎み)つつ吹く秋風」の「下に通ひながら」がわからない、秋風を吹かせているのは女性の方か? (和歌では通例で「秋風」に「飽き」が掛けられる)

「ひとめ避くこともかたしき望月の君を思へば朧なりけり」

判者評:人目を避けることも難しい、(今となっては)衣を片敷いて(そこに映る)望月のような君を思えば朧である。「かたし(難しい・片敷き)」を掛詞とし、物語を繋げていく趣向は見事。古歌にもない用法なのではないか。ただ結句「朧なりけり」がそれこそはっきりせず、もったいない。たとえば「心空なり」など。

「人目守りかすみの衣まとひしかさやぐ風にはいかにせむかや」

判者評:人目につかないよう気をつける「恋瀬の川」の流れがはやいので、激しい心がせき止められない。ちなみに「恋瀬川」は続後拾遺集に「恋瀬川浮名を流す水上も袖にたまらぬ涙なりけり」がある。「恋瀬の川は速いので」は受け入れられうか?(飛鳥川のような歌枕理解があるか、ということ)。 結句「塞き敢えぬなる」は耳に立つ。「たぎつ心をせきぞかねつる」とか。

「くもれかし袖のしがらみせきかねて露の淵瀬をてらす月影」

判者評:曇ってほしい、袖のしがらみを(涙が)せきかねて、露の逢瀬を照らす月影よ。月や闇夜を照らす、人目憚る恋には大敵である、だから曇ってほしい。「袖のしがらみせきかねて露の淵瀬」も趣向は濃厚で、一首が充実している。むしろ手加減してバランスを整えてもいいかもしれない。「くもれかし人目を忍ぶかよひ路をさらぬ(素知らぬ)顔にててらす月影」

「水無瀬川淵瀬の堤深ければ下ゆく水にあうよしもがな」

判者評:水無瀬川の渕瀬のつつみが深いので、下にかよう水にあう手段があればなあ。水無瀬川に人目憚る恋を喩えた歌。ちなみに水無瀬川は固有名詞でもあるが、和歌では基本的に表に現れない、現せない心をたとえて詠む。その場合、水無瀬川にも堤があるのかわからない。また水無瀬川じたいが下行く水だが、下の句の「下ゆく水にあふしもがな」が素直でない。たとえば下の句を「下ゆく水に任せてぞみむ」とか。ちなみに「あう」は「あふ」になる。

「人知れず逢ひ見し去年のかよひ路の花をおぼゆる片敷きの春」

判者評:人知れず逢瀬を重ねた去年の、かよい路に咲いていた花を思い出す、一人寝の春。伊勢物語を踏まえた、余情深い一首。「おぼゆる」がどこにかかっているか曖昧、「通い路の花」ではなく本来は「去年の恋」だろう。また結句「片敷き」は一人寝の暗示だが、「片敷きの春」は言い足りてないし、なくてもわかる。よって「人知れず逢ひ見し人をおぼえらる(思ひ出づ)かよひし路に咲く花みれば」

「ふしのまと知りつつひそみみごしらへ重ねる逢瀬人な知られそ」

判者評:少しのあいだと知りつつ秘密に身支度して重ねる逢瀬を、人よ知るな。ユニークだが散文調である。四句目は「重ぬる」、結句は「人な知りそ」が自然。歌らしく、例えば「ふしのまと知りて重ぬる恋なれやかたときばかり人な咎めそ」とか。

「朝霧にこもりて咲ける花枇杷のひとめよきても香はかくすまじ」

判者評:朝霧のなかにこもって咲いているビワのように、人目を避けても香は隠さない。月下の梅に匹敵する見事な情景、ビワ(びは)が新鮮だが許容か? 歌のこころはとても挑戦的で、美しい姿をなしている。ただ題には叶わないか。

「人目守る恋瀬の川の速ければ激(たぎ)つ心ぞ塞き敢えぬなる」

判者評:人目につかないように霞の衣を着ているのだろうか、(しかし)騒がしい風にはどうするのだろうか。奥に座す女を隠す喩えに「かすみの衣」とし、それを風が払うとした趣向が見事。女が「まとふ」のではなく、関守が「まとはす」として方が物語に適うのではないか。「さやぐ風」は詠歌主体である男が起こす行動か、また周囲のうわさ話などか、はっきりしないがどうか。三句、結句の係助詞が続くのは耳によくない。よって「人目守りかすみの衣まとはすかにはかにおこる風を知らずに」

「滾り立つうき瀬知られじ思川通ふ心のとがさへ甘し」

判者評:しぶきを上げながら立つうき瀬(つらく苦しい立場)は知られないだろう、思川は。通う心の罪までも甘い。「たぎる」「うき瀬」「思川」「とがさへ甘し」と伝統的な和歌のこころと、作者の思いが激しくぶつかった印象の歌。ちなみに「思川」は「おもひ川絶えず流るる水の泡のうたかた人に逢はで消えめや」〈伊勢〉がある。激情的であるが、歌としてのまとまりがつかなくなっている印象。作者の独白である「通ふ心のとがさへ甘し」に絞てはどうか。

「水無瀬川下に通はむつつみにて音には立てじ思ひ死ぬとも」

判者評:水無瀬川の下にかよふような慎みなので、音には立てない、恋死しようと。ここでも「水無瀬川のつつみ」が成り立つか確認したい。不自然な場合、たとえば「水なれや」とする。

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