あかね歌会 令和五年十一月「忍恋」※判者評付

令和和歌所では、いにしえの和歌を継承し令和の世にふさわしい「歌集」を編むことを目指しています。二十三代の集に採られた歌は除きますが、空飛ぶ鳥が網を漏るように、水に住む魚が釣針を逃れるように… 撰集に漏れた優れた歌を集め、わたしたちが詠んだ令和の和歌と合わせて、あたらしい和歌のアンソロジーをつります。
「あかね歌会」はそのための研鑽そして歌を集める場です。題を設け、月に一度のペースで歌を詠みあい批評を行っています。ぜひみなさま、奮ってご参加ください。

和歌の型(基礎)を学び、詠んでみよう!「歌塾」
和歌を詠みあい、評し、継承する「蒐(あかね)歌会」

令和五年十一月の歌会では以下の詠草が寄せられました。一部を抜粋してご紹介します。

判者詠草

隠沼に身を捨ててこそ恋死なめ水籠りのまま朽ちむものなら(圓学)
山深く木の葉うづみてゆく水のながれな出でそ時雨ふるとも(攝津)
もらさじとくもゐにかくしとほすべき月もしられぬ恋をするかな(木喬)

みなさまの詠草

「月にすむ桂のごとき君みれば身を知る雨のみかさまされり」

判者評:月にある桂の木のようなあなたを見れば、身を知る雨の嵩がますばかりである。月の桂の木の「君」は、美しくそして手の届かない女性を喩えるのだろう。「身を知る雨」は我が身の不遇をたとえていう。よって叶わぬ恋をしたばかりに、悲嘆の涙で溢れるということだろうか。ただ「身を知る雨」は相手のつれなさによって降るので、この歌では使い方に若干の違和感がある。

「恋しのびなく音にまがふ浦波は千々にくだけてあわと消えなむ」

判者評:恋しのんで泣く音にまじる浦浪は、千々にくだけて泡ときっと消えるだろう。鳴き声を波にたとえ、それが砕けるとした趣向は見事である。ただなぜ、「砕けてあわと消える」のか理由が明確でない。よって結句を「知る人もなき」などしたい。

「あいかまえをのこはみんな真神なり慎みたまへとしごろなれば」

判者評:よくよく注意なさいませ、男はみんな「大神・狼」である。慎みなされ、もういい年なんだし。恋であるが俳諧味の強い歌である。上句は男の下心を女性に警告しているが、下句は女性と男性どちらに向けた言葉だろうか。

「恋ふれども言ひ出だされぬ言の葉は心深きに積もりぬるかな」

判者評:恋をしてもけっして伝えることができない言葉ならぬ「言の葉」は、心深く積もっている。言葉ならぬ「葉」にかえて、それが積もるとした巧みな歌である。「心深き(に)積もりぬるかな」が難しいか、例えば「重ねるごとに積もりぬるかな」とか。

「しぐるれどなほ下燃ゆる埋め火の心ならずや人を思へば」

判者評:時雨が降ってもそれでもくすぶる埋め火のように、本意ではない、人を思えば。序詞、倒置を用いた巧みな歌である。ところで「心ならずや」だけでなく「思ひは消えじ」といった表現も可能で素直である。

「あな恋(こひ)し恋(こひ)しとさへや言へぬ身よ末の松山待つも涙ぞ」

判者評:ああ恋しい。恋しいとさえ言えない身である。末の松山を待っているも涙が流れる。恋の悲嘆がこれでもかと叫ばれている。下の句が難しい、「末の松山」は宮城県の歌枕で「君を置きてあだし心をわが持たば末の松山波もこえなむ」とあるように「ありえないこと」の喩えとして詠まれるが、ここでは清原元輔の「契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山波こさじとは」の意をくんで、すなわち「永遠の契りを交わして待つ身」として詠まれるか。

「わが恋はかがり火の影うばたまの夜川の底の水に燃えけり」

判者評:わたしの恋は、かがり火の影である。まっくらな夜の川の底の水に燃えている。ひそやかな恋を川底に映るかがり火の影に喩えた。二句切れ、句またがりと構成が巧みで調べに妙がある。「水に燃える」は素直でないか、たとえば「わが恋はかがり火の影うばたまの夜水底ふかく見えで燃えけり・ほのかにぞ燃ゆ」

「死ぬならば恋に死にたしほうたるの火のいかにして身を焦がすべし」

判者評:どうせ死ぬなら、恋い焦がれて死にたい。蛍火ならぬ我が「思ひ」をどのようにして身を焦がせばいいのか。あるようでない、素晴らしい着想である。美と悲嘆が見事に共存している。「ほうたる(の)」は「は」とした方が分かりやすい。「ちなみに和歌で「死」や「血」などという言葉は忌み避けられるが、「恋死ぬ」や「血の涙」は例外である。それは本当に「死ぬ」のでも「血を流す」のでもなく、激烈な譬喩だからである。歌はしいて言えば「忍ぶ」心が弱いか。例えば「恋死なむ人に知られぬほうたるの思ひをいかで身を焦がすべき」

「ながめする軒のしのぶにこぼれけりつつむにあまる袖の上の露」

判者評:長雨が降る軒のしのぶ草にこぼれた露は、隠すことができない袖の涙であった。「しのぶ」にはもちろん「忍ぶ」が掛けられている。抜群にうまい歌である。姿・こころともに優にてはべらん。しいていうなら、袖の露が軒の忍にこぼれるのは無理があるか。「つつむにあまる」はいい言葉だ。

「葦垣のまぢかきゆえのとほまわりうちにとどめんもとのこころは」

判者評:間近いゆえに遠回りする。こころに留めておこう、心にある本心は。「葦垣の」は「間ぢかし」の枕詞。忍ぶ恋の理由が詠まれた稀な歌、ここではおそらく近親者への禁断の恋が詠まれ、感情的である。ゆえにこの恋の先が気になる…

「したもひを告げし今宵の望月を彼方の君もふと眺めなむ」

判者評:下思ひを告げた今夜の満月を、ずっとあちらにいる君もふと眺めていてほしい。こちらも前後の物語を感じさせる歌である。満月の夜、かねてよりの思いをようやく告げることができた。ここで月は互いの象徴であり、これを眺めるとは相手を思うということである。結句は「なむ」は願望の方が抒情が増すだろう。ただ題「忍恋」に適ってない、でもいい歌である。

「せきかねて涙に袖は濡れぬとも忍ぶ思ひはつゆももらさじ」

判者評:堰き止めることができずに涙に袖は濡れるとしても、忍ぶ思いはぜったいに漏らさない。忍び鳴く涙に袖はぐっしょり濡れている、しかしそれでも思いはぜったいに漏らさない。反する気分にはさまれて苦悩する人間の切迫感が詠まれている。「せき」、「もる」とあるので「川」もしくは「水」の縁語で統一してはどうか、たとえば「せきかねて涙の川は流るとも」とか。

「風も無き池の水面に立つ波は心に秘むる思ひのささやき」

判者評:水面に立つ波は、こころに秘めている恋心のささやきであった。見立てが冴える歌である。和歌の恋はわりに激情的であるが、この歌はすこぶる穏やかな心境が詠まれている。しかし果ては荒波に変るのだろうか?

「思ふ心伝(つ)つるくちなし染めたるはいわでの里の山吹の花」

判者評:忍ぶ恋心を伝える口がないので言わない。そのクチナシを染めているのは、いわでの山の山吹の花であった。山吹にまつわる「物の名」を巧みに取り入れた、技巧が光る忍恋である。ただ本来、山吹色を染めるのがクチナシであって、表の意味が通っていないのはやむを得ないか。

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