中世に輝く和歌の印象派! 京極為兼と「京極派」を知る

今回は古典和歌における異彩、京極為兼と京極派をご紹介します。
しかしどうでしょう、京極派はおろか彼らが編纂に携わった勅撰集「玉葉和歌集」ならびに「風雅和歌集」を知る人は少ないのではないでしょうか、なぜか? それはあの「百人一首」に彼らの誰ひとりとして採られていないからです。現代における和歌のイメージはほとんど百人一首で決まってしまいますからね。ではなぜ百人一首の撰から漏れたかといえば、京極派を築いた「京極為兼」は定家の曽孫に当たり、定家はそのような子孫の活躍を知るよしもなかったのです。

後鳥羽院の右腕として「新古今和歌集」編纂に加わり、後世に愛好家を多く残した「百人一首」を編んだ和歌界のレジェンド藤原定家。その家筋「御子左家」は孫の代に家領の争いから為氏の「二条家」、為教の「京極家」、為相の「冷泉家」の三家に分裂します。
二条家は嫡流として以後の勅撰集編纂の役をほとんど独占、家筋は室町時代に断絶するも歌風は「古今伝授」といった形で伝わり明治に至るまでの堂上花壇でしぶとく生き続けました。冷泉家はなんと今も京都にその家を残しています。念願の勅撰和歌集の編纂は叶いませんでしたが、和歌にまつわる貴重な資料や伝統を伝えています。

→「公益財団法人 冷泉家時雨亭文庫

そして京極派歌風を生んだ京極家。開祖は為家の三男為教ですが、独自の歌論を起こし、その理想を勅撰集に結実させたその子為兼こそ実質的な京極派の開祖といっていいでしょう。

京極派の真価、それは中世和歌に「新風」を吹き込んだことです。
「新儀非拠達磨歌」、こう揶揄された斬新な歌風を生み出した定家も晩年には伝統的な歌風に落ち着いていきます。その表れが九代勅撰和歌集「新勅撰集」、同じく彼が関わった新古今集と比べると目新しさもなく、和歌史においてもほとんど評価されていません。御子左家の嫡流たる二条家はその退屈な伝統歌風を連綿と受け継いでいきます、それはまさに現代の家元制度! 文芸を前に進めるより家の墨守を優先し、変わりばえのない歌を量産していくのでした。この中世和歌の暗黒期にあって新風をひっさげて和歌史に燦然と現れたのが京極派であったのです。

京極為兼は歌論(為兼卿和歌抄)でこのように語っています。

こと葉にて心をよまむとすると、心のままに詞のにほひゆくとはかはれる所あるにこそ (為兼卿和歌抄)

つまり為兼は「自らの心が感じたまま」を歌うことを理想としたのです。これは革命です! いうなれば正岡子規の「写生論」の先取りであり、平安から鎌倉時代の和歌史における画期的な大事件でした。

平安から鎌倉時代初期、和歌は完全に宮廷の遊戯でありました。ここで歌うのは単純な自然風景や心情吐露なんてことはありえず、ハレの場に相応しい風雅であり教養であったのです。よって複雑な修辞や古歌、漢籍の知識などでこねくり回された理知的な和歌こそ和歌らしい和歌であり、伝統的な和歌として君臨していました。

そこに突き立てた為兼の表明、彼ら京極派は伝統に対して勝負を挑んだのです。

※実のところ為兼のアンチテーゼには政治的な意味合いも多分にありました。鎌倉時代後期、天皇家は分断状態にあり大覚寺統と持明院統とで交互に即位するという状況に陥ります(両統迭立)。後の南北朝時代につながる史実で複雑かつ面倒なので端折りますが、歌道の二条家は大覚寺統に、京極家は持明院統にそれぞれ仕えました。京極派の主要歌人である伏見院、永福門院、花園院らはいずれも持明院統であり、京極派が編んだ両勅撰和歌集は持明院統の天皇の勅撰です。為兼の二条家和歌に対する挑戦は大覚寺統への挑戦でもあったのです。

ではさっそく、京極派の和歌をご紹介しましょう。

玉83「梅の花くれなゐにほふ夕暮れに 柳なびきて春雨ぞふる」(京極為兼)
玉419「枝に漏る朝日の影の少なさに 涼しさ深き竹の奥かな」(京極為兼)

理知なくありのままの風景を詠う京極派和歌には適役は不要、繊細な言葉で紡がれた情景に陶酔するのみです。するとどうでしょう、あるイメージが重なりませんか? そうです、19世紀の西洋絵画史に燦然と現れた「印象派」です。

為兼に見える薄紅と緑青にうるおう光の印象は、まさに変幻自在の光を描いたフランスの印象派絵画ではありませんか! 伝統的なルールから離れることを最初に企んだ為兼は、さしずめ「草上の昼食」、「オランピア」でアカデミズムに挑んだ印象派の父「エドゥアール・マネ」といえますね。

さて、京極派の最重要アーティストは為兼ではありません。伏見院の中宮、永福門院その人であります。

玉84「峰のかすみ麓の草のうすみどり 野山をかけて春めきにけり」(永福門院)
風199「花の上にしばしうつろふ夕づく日 入るともなしに影きえにけり」(永福門院)

いかがでしょう、かつて永福門院ほど光や空気の色を繊細に描いた歌人がいたでしょうか?
これほどの光の輝き、色彩の鮮やかさの表現は印象派の旗手「クロード・モネ」です。

モネはこんな言葉を残しています。

私は鳥が歌うように絵を描きたい

モネも永福門院はじめ日本の歌人も、目指すところは同じだったわけです。日本人が印象派絵画を好む理由はこんなところにあるのでしょう。

ところでモネといえば「積み藁」や「ルーアン大聖堂」といった連作も有名ですよね。彼はこれらの連作によってアトリエ制作ではありえない、光の移ろいそのものをキャンバスに捉えようと腐心しました。為兼が編纂した勅撰集「玉葉和歌集」にもモネと同じような連作の印象があります、時々刻々と移ろう繊細な光の配列です。

玉136「山桜この夜の間にや咲きぬらし 朝げのかすみ色にたなびく」(伏見院)
玉174「思ひ初そめき四つの時には花のはる 春のうちにも曙の空」(京極為兼)
玉196「山もとの鳥のこゑごゑ明け初めて 花もむらむら色ぞ見みえゆく」(永福門院)
玉199「をちかたの花の香りもややみえて 明くる霞の色ぞのどけき」(永福門院内侍)
玉201「ながめくらす色も匂ひもなほそひて 夕影まさる花の下かな」(飛鳥井雅孝)
玉203「山の端に入日うつろふくれなゐの 薄花さくら色ぞことなる」(亀山院)
玉213「入りあひのこゑする山の影暮れて 花の木の間に月いでにけり」(永福門院)

こうなってくるとあの画家も探したくなりますね、「オーギュスト・ルノワール」です。
しかしながら残念、京極派にはルノワールのような官能的な女性を描いた作品がありません。ということで、全く時代は違いますがこの方でご勘弁ください。

「春の苑くれなゐ匂ふ桃の花 下照る道に出でたつ乙女」(大伴家持)

趣旨が外れてしまいました。京極派と印象派ですが、、 実のところ京極派と呼べる歌人は少なく、これ以上の比較が難しいです。
為兼には子がおらず、彼の没後京極家は断絶しました。二条家のように歌風を継ぐものもなくその名は和歌史から消えてしまったのです。残念… しかしもし京極派が続いていたら、和歌はどのように進化していたのでしょうね。「ゴッホ」のような鮮烈な色彩、「ドガ」のような社会風俗に目を向けた歌などが案外詠まれたかもしれませんよ。

さて、せっかくなので最後に後期印象派。「ジョルジュ・スーラ」をご存知でしょうか? 彼は印象派の技法を突き詰めた結果、光学的理論による点描に到達しました。確かに理論的には間違っていないのでしょうが、スーラの作品は自然風景としては不自然極まりないといえるでしょう。

と考えると、実は和歌史と西洋絵画史はまったく逆を行っていることに気づきました。
西洋絵画はアカデミックな写実画から印象派をへて抽象画に至りますが、和歌は先に理論的な抽象歌が主流となり京極派をへて写実歌へと進むのです。ざっくりですが古今集、玉葉集、近代短歌の流れですね。万葉集が抜けているだとかいろいろ無理がありそうですが、まあこんな戯れの考察も面白いものです。

いかがでしょう、京極派の魅力が伝わったでしょうか。それとフランス印象派との関係も!
実のところ両者の共通点は風景の表現技法に留まりません。「幸福感」、作品から得られる優しい温もりこそがその本質です。
現代ではほぼ忘れ去られてしまった京極派、ぜひみなさまも注目してみてください。

(書き手:和歌DJうっちー)

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