芸術としての「和歌の優位性」

芸術作品として、和歌にはいかなる価値があるでしょうか?

いや、そもそも和歌に芸術的価値なんてものがあるのでしょうか? 絵画や音楽などと比較して、詩歌とくに「短詩型文学」の和歌(短歌)や俳句といったものは、芸術に値しないという意見は根強くあります。桑原武夫の「第二芸術論」などが有名ですが、この際に問題とされるのが「美の再現性の低さ」です。

同じ詩歌文学でも、長詩や散文(小説)と違って、和歌(短歌)や俳句は文字数が極めて限定されています。これは作者の趣意を鑑賞者が正しく再生産できないということです。要するに短詩型文学は価値責任のほとんどを、観賞者に押し付けてしまっているのです。

はたしてこんなものが芸術なのでしょうか? 私としては、だからこそ短詩型文学にも芸術性が宿ると考えています。

絵画や音楽は、目や耳といった人間の知覚にダイレクトに訴えます。これは詩歌に比べるとものすごい優位性です。詩歌は作品実体が言葉であり、これを一旦脳内で再構築(解釈)するという間接的作業が発生します。要するに観賞者に積極的な感受労力と再構築能力を強いているのであり、「美の再現」の上で高いハードルとなるのです。

しかし一方で詩歌、特に短詩型のそれは再構築に伴う自由度が高いという優位性があります。良かれ悪しかれ鑑賞者に解釈の余地を委ねている分、作品が成功すれば、絵画や音楽以上に美的様相を感受することも可能なのです。

実は優れた詩歌は、この鑑賞者側の美の増幅を期待して作品が作られています。象徴歌です。この象徴こそが短詩型文学の芸術性を担保しているのであり、これがなければ単なる三十一文字の散文、芸術を名乗ることは甚だ難しいでしょう。

さて、その短詩型文学の中において、和歌は一段の優位性があります。

まず短歌との比較ですが、「われ」が主体の現代のそれは極めて独断的であり、鑑賞者との共感性は極めて乏しいのが実情です。そして俳句、現代俳句を見渡すとほとんどが「配合の妙」に頼り、まるで白と黒を配合してグレーを生じこの評価を観賞者に委ねるのです。その解釈はまさに人の数ほど。
要するに現代短歌と俳句は鑑賞者なんかお構いなしの無法地帯といった様相で「美の再現」なんてのはほとほと期待できないのです。

和歌は違います。
まず大前提として、和歌は古典文学の素地があって詠まれます。これは「作品に一定のルールがある」ということであり、作者と鑑賞者の間に共通理解を働かせています。要するに和歌は三十一文字の短詩型文学でありながら「美の再現性が高い」のです。

観賞者に一定の教養(古典文学)を求めるものの、自然美を媒介として人と人そして世界との心をつなぐ、極めて優れた芸術作品、それが和歌なのです。

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(書き手:歌僧 内田圓学)

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