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ついに藤原定家の登場です。
和歌に興味を持てば、おのずと彼の名に突き当たることになります。

定家の父は千載和歌集の選者であり、歌道御子左家のオリジン藤原俊成。
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自身は百人一首や新古今和歌集の選者であり、仕事とライフワークを兼ねて収集、書写した源氏物語(青表紙本)や古今和歌集などは日本文化の至宝というべきもの。
生涯最高位は正二位で権中納言という高位。また能楽『定家』では式子内親王との禁断の恋が伝わるなど、和歌史ひいてば日本文化史において、今にもその名を轟かせる最重要人物です。
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と聞けば、誰もがトキメク天才貴公子なんかを想像するかもしれません。

そんな妄想をしていたあなた!
申し訳ありません、、

定家様の実像は全く違うのです!!

この時代、貴族たちはこぞって自身の「日記」を書き記していました。
ご多分に漏れず定家も「明月記」という日記を19歳から73歳にかけてしたためているのですが、これが妄想に膨れた定家像を見事に打ち砕いてくれます。

日記にある定家はこうです、
※日記の記述は「定家明月記私抄(堀田善衛著)」から引用させて頂きました

「官途ノ事ハ望ヲ絶チ了ンヌ」と、出世できない身の上に絶望し、
「貧乏、衣装無キニ依リ…」と、貧窮の苦しみを訴え、
「詠吟風情尽ク」と、風情ある歌が詠めないことを嘆く
それも何度も何度も…

まさに惨憺たるもの。
やけっぱちの極み…
他人の日記なんて、見るもんじゃありませんね。

定家の人物像が伝わるのは明月記だけではありません。
例えば「後鳥羽院口伝」。
後鳥羽院と言えば歌人定家を見い出した人物。
自らが命じた「新古今和歌集」の編纂作業などを通じて、定家との関係も浅からぬ仲です。
その口伝にはなんとあるか?

「傍若無人」
「腹立の氣色あり」
「あまつさへ種々の過言」
「かへりて己が放逸を知らず」

ものすごい酷評です…
それにしても治天の君に「種々の過言」とは、なんとも恐れ知らず。
→関連記事「後鳥羽院 ~お前のものは俺のもの、中世のジャイアン~

さて、これでは定家様のイメージ丸潰れ、和歌界のレジェンドの面目が立ちませんね。

彼が生きた平安末期から鎌倉初頭は激動の時代でした。
源平合戦に知られる「治承寿永の乱」、「方丈記」や小説「羅生門」に残る「養和の大飢饉」など、乱世極まれり! といった様相で、明日をも知れぬ状況だったのです。

そんな中、明月記、定家19歳の名文句です
「紅旗征戎(こうきせいじゅう)吾ガ事ニ非ズ」

外野なんて知ったことか、俺は俺の道を行く!
二十歳もゆかぬ若造がこんな宣言するなんて(いや若造だからこそ言えたのか…)
ともかくちょっとカッコイイじゃないですか。

思うに藤原定家という人は、
怒りのパワーで絶望の世界に自分の理想郷を築こうと悶え苦しんだ人だったのです。
歌という武器を用いて。

トキメク貴公子とは言えなくても、ゴッホやベートーヴェンにも通じる怒れる天才「アーティスト」であったはずですが、
悲しいかな藤原定家、後鳥羽院という絶対上司に仕える一介の「サラリーマン」に過ぎないのです。

でもこの抑圧、憤懣やりきれない気持ちの爆発が、あの研ぎ澄まされた美しい象徴歌に結実したのだと思います。
今回は定家の人生を辿る十首を鑑賞してみましょう。

藤原定家の十首

一「出づる日の おなじに 四方の海の 浪にもけふや 春は立つらむ」(藤原定家)
定家のデビュー作は「初学百首」という百首歌。その一曲目を飾るのがこの歌です。
春が立つ(立春)と浪が立つを掛けるという平明な歌、天才もスタートは平凡だったですね。
この時定家20歳、伝説のはじまりです。

二「見渡せば 花も紅葉も なかりけり 浦の苫屋の 秋の夕暮れ」(藤原定家)
「二見浦百首」で詠まれたこの歌は、「三夕の歌」としても超有名な歌です。
驚くべきはこの歌を詠んだ時、定家はまだ25歳だったということ。その若さでこの寂れようです。
ちなみに三夕で並び立つ西行とは44歳ほども離れています。すでに天才の片鱗が見えています。
→関連記事「三夕の歌 ~秋の夕暮れベスト3~

三「たまゆらの 露も涙も とどまらず 亡き人こふる 宿の秋風」(藤原定家)
新古今和歌集にも入るこの歌は、母である美福門院加賀が亡くなった折、父俊成に向けて詠んだ哀傷歌。
定家32歳。熟練度が増してきた象徴歌も大切な人の弔いの前では軽く感じてしまいます。

四「行き悩む 牛の歩みに 立つちりの 風さへ熱き 夏の小車」(藤原定家)
同じく32歳、六百番歌合に入る歌です。
六百番歌合とは藤原良経の主催で、歌人12人が百首づつ詠進し計千二百首を左右に番えて優劣を競うという前代未聞の歌合です。
参加した九条家歌壇(俊成、定家、寂連ら)と六条藤家という新旧歌の家の全面対決になりました。
結果は…その後の家の栄枯盛衰をみれば明らかです。こうして天才定家は鍛えられていったのですね。

五「春の夜の 夢の浮き橋 途絶えして 嶺に分かるる 横雲の空」(藤原定家)
定家37歳、「御室(仁和寺宮)五十首」に入る歌です。
口語訳するのが野暮になってしまう洗練された象徴歌。
個人的にはこの五十首こそが定家史上最高の作品だと思うほど、優れた歌が並んでいます。

六「梅の花 匂ひをうつす 袖の上に 軒もる月の 影ぞあらそふ」(藤原定家)
この歌が入る「正治初度百首」を見て、後鳥羽院は定家に大惚れしました。
院に認められた定家はあっという間に昇殿を許され、後鳥羽院歌壇の第一人者への階段を昇ります。
梅の匂いと月の光が袖で争う。定家39歳、一大転機となった作品です。

七「かきやりし その黒髪の すぢごとに うつふすほどは 面影ぞたつ」(藤原定家)
新古今和歌集に採られた恋歌です。定家はこんなエロティックな歌も得意なのです。

八「白妙の 袖のわかれに 露おちて 身にしむ色の 秋風ぞふく」(藤原定家)
後鳥羽院の離宮、水瀬川で詠まれた「水無瀬川恋十五首」を飾る一首です。
この時定家41歳。歌人としてピークを迎えるとともに、後鳥羽院との関係も微妙になっていきます。秋風が吹くように。

九「秋とだに 吹きあえぬ風に 色かわる 生田の森の 露の下草」(藤原定家)
この歌が「最勝四天王院障子和歌」に選ばれなかったといって、選歌した後鳥羽院に定家は陰で毒づきます。
しかし狭い宮中、その噂は院の耳に入りあの後鳥羽院口伝の記述になります。
「最勝四天王院の名所の障子の哥に生田の森の歌いらずとて、所々にしてあざけりそしる、あまつさへ種々の過言、かへりて己が放逸を知らず」
定家恐るべし!

十「道のべの 野原の柳 下萌えぬ あわれ嘆きの 煙くらべに」(藤原定家)
これを見て後鳥羽院は大激怒します。
実はこの歌には本歌があり、詠み人は菅原道真なのですが…
「道のべの 朽ち木の柳 春くれば あはれ昔と しのばれぞする」(菅原道真)
定家は己を配流された道真に喩え、自分(院)に恨みを言っていると受け取られたのです。これで定家は人生二度目の院勘、つまり勘当処分を受けました。

その翌年、1221年に後鳥羽院は「承久の乱」を起こします。
結果は言わずと知れたものですが、隠岐に流されてしまった院とは二度と会うことはありませんでした。

後鳥羽院と離れ、鎌倉方に近づき生活が徐々に豊かになっていくと
定家のあのため息の出る様な象徴歌はナリを潜め、前時代的な平明な歌ばかりが増えていきます。
例えば晩年の作品「藤河百首」から引いてみると…

「朝ぼらけ みるめなぎさの 八重かすみ えやは吹きとく 志賀の浦かな」(藤原定家)
「けふよりや このめもはるの さくらはな 親のいさめの 春雨の空」(藤原定家)
ちょっとした変化球がありますが、ほとんど古今調です。

「秋風の 雲にまじれる 嶺こえて 外山の里に 雁は来にけり」(藤原定家)
これなんか、言っちゃなんですがなんのヒネリもない歌です。

定家にとって、生活の安定は望むところだったのかもしれませんが、ファンとしては少しばかり残念です。
天才が育つには、環境という要素が非常に重要なのかもしれませんね。

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(書き手:内田かつひろ)

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