辞世の歌 その4「鴨山の岩根し枕けるわれをかも知らにと妹が待ちつつあらむ」(柿本人麻呂)

「鴨山の岩根し枕けるわれをかも知らにと妹が待ちつつあらむ」(柿本人麻呂)

柿本人麻呂はいわゆる「歌聖」と称えられる人物です。持統天皇の御代に宮廷歌人として活躍し、草壁皇子や川島皇子への挽歌をはじめ皇室の折々の儀礼に際しみごとな歌を献上しました。しかしそれだけで人麻呂が歌の神様になったわけではありません。

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「石見の海打歌(うつた)の山の木の際(ま)よりわが振る袖を妹つらむか」

人麻呂は持統朝の後期に国司として石見(島根県西部)に赴任しました。この歌は人麻呂が大和への帰京の際に、石見に残した妻を思って詠んだ一首です。いかがでしょう、宮廷歌とはまた違う人麻呂というひとりの男の愛情が素直に伝わってきますよね。このように人麻呂は相聞歌、雑歌にも長け、いわば「やまとうた」の世界をひとりでつくりあげた創造主であったのです。

万葉集には先の歌に対する妻からの返歌が載ります。
「な思ひと君は言へども逢はむ時いつと知りてか我が恋ひざらむ」(依羅娘子・よさみのおとめ)

後ろ髪を引かれる思いで旅立った男は、幾度も振り返り見て女を探す。そんな思いが伝わるかのように、女も再び逢える日を願って恋心を募らす。古代人の情熱的な恋愛がここに歌われています。

人麻呂の辞世歌は万葉集に載ります。「鴨山」は地名、そこの岩を枕に死にゆく私を知らないで、愛しい妻は待ち続けているのだろうか… 
詞書には「石見の国にありて死に臨む時に、自ら傷みて作る」とだけあり、詳しい状況はわかりません。ただ万葉集にはこの挽歌に続いて依羅娘子の歌が採られており、石見を旅立った人麻呂が途中なんらかのトラブルで行き倒れて、そのまま永遠の別れを迎えてしまうという悲劇の恋物語が想像できます。

「今日今日と我が待つ君は石川の峡に交りてありといはずやも」(依羅娘子)

女は後に、男の非業の死を伝え聞くのでありました。

(書き手:歌僧 内田圓学)

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