そのままだ。定家ら新古今歌人のいわゆる「達磨歌」とは違う意味で説明不要である。西行の秀歌の大半は力んだところがまったくない、ただ思うままを三十一文字にしただけだ。例えば定家の歌は言葉が重なるほどに美しさが乗じていくが、西行はそれを削ぎ落とすことで同様の印象を得る。反するアプローチを取りながら、同じく到達する「美」というものはいったい何ものだろう? 一言でいうなれば「真実」である。真実に到達した作品が、私たちに美しさであり感動を与えるのだ。定家はそれを複雑に構成された虚構の物語で描き、西行は感じるままの心を歌にした。どちらが優れているか? どちらもである。
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