令和の詠み人のあいなし事は詠むべき歌枕の少なきことなり。思いを寄せるべき歌枕ありせば、歌心もよりけに燃ゆらんとて、令和に相応しき歌枕を探してぞみむ。
都内の歌枕を探して、今回は「吉原」へ行ってきました。
吉原は江戸期から今に続く遊郭の地です。歌枕にはいかがと思われるかもしれませんが、ある文学によって許されるでしょう。それは「たけくらべ」です。「廻れば大門の見返り柳いと長けれど」にて起こる樋口一葉の傑作はこの地が舞台です。
樋口一葉という人物について、明治の小説家で女性ではじめて紙幣の肖像に刷られた、というくらいは知られているとは思いますが、その作品を読んだことがあるという人は案外少ないのではないでしょうか。それは一葉の文学作品が文語体を用いながら、平々凡々の日常をテーマに描いていることに理由があるかもしれません。今の物語の多くは仰々しく、舞台、人物心情すべてが心情を激しく爆発させながら、最後に腑に落ちるわかりやすい結末が描かれます。ようするに現代の文学は非日常的なエンタテインメントなのです。
一葉の文学はそうではありません。男女の日常のさまがもの静かに描かれ、確かな結末が描かれないことも常です。しかし読み終えた余韻は深く心に残る、一葉の文学まさに余情の文学なのです。
その筆頭が「たけくらべ」でしょう。吉原遊郭を舞台とし、恋を知り初めた子供らが描かれる物語は、美登利と信如は互いを意識しつつも、恋とは何か大人とか何かを考える間もなく、さだめられた運命に従って異なる道をゆく。言いたいことも言えず、語りたいことも語らず、ただ思ひを最後に「水仙の作り花」に託して筆を置く、なんと心ざし深い物語でしょうか。誰しもが通る、子供から大人に至る残酷な谷を見事に描いたこの物語こそ、人生の真実と言えるでしょう。
現代の気持ちよく納得感のある結末を求むる読者には、一葉の文学はきっと退屈なことだと思います。このような人たちにとっては樋口一葉は五千円札の人でしかないでしょうが、これはまことに残念なことです。
「吉原の柳は今も変わらぬに移ろひやすき人の心ぞ」(内田)
「身をやつし今に残れる大柳おはす姿に涙こぼるる」(内田)
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(書き手:和歌DJうっちー)
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