【百人一首の物語】九十九番「人も惜し人も恨めしあぢきなく世を思ふゆゑにもの思ふ身は」(後鳥羽院)

九十九番「人も惜し人も恨めしあぢきなく世を思ふゆゑにもの思ふ身は」(後鳥羽院)

ついに百人一首も二首を残すのみとなりました。しかしこの二首こそが百人一首を百人一首たらしめる二首であり、後鳥羽院、順徳院がここに置かれていなかったら、この百首歌はとても後世に受け継がれるような文学とはなっていなかったことでしょう。

歌集というものは基本的にどんなものであれ配列、部立といった構成を持っています。ともすれば現代人は歌を一首ずつ切り取って鑑賞しがちなのですが、それは完全に誤った鑑賞方法です。
百人一首の配列は歌人の年代順となっています。それが天智天皇、持統天皇からはじまり後鳥羽院、順徳院で終わる、ようするに百人一首とは平安王朝の栄枯盛衰の物語なのであり、この一点に歌集の生命があり、後世に連綿と受け継がれた価値であるのです。

天智天皇、持統天皇の両歌は明白ではないのですが、後鳥羽院、順徳院の二首は物語を締めくくるにふさわしい歌といえるでしょう。

「人がいとおしくも、人が恨めしくも思われる。おもしろくないものとこの世の中を思い、それゆえあれこれともの思いをする私には」

後鳥羽院は異例ずくめの帝王でした。鎌倉方に政治の実権が移りゆくなか文武に才能を発揮、狩猟に競馬、相撲、蹴鞠、囲碁、双六、琵琶、今様などに徹底的にはまって真剣勝負を繰り広げました。
なかでも情熱を傾けたのが和歌で、史上最大の歌合せ「千五百番歌合せ」をはじめ、勅撰集編纂の和歌所に良経や慈円といった時の摂政太政大臣や天台座主といった高官を寄人に任命、しかもみずから編纂に加わって後には饗宴までも開催したのです。これは勅撰集(新古今和歌集)を国家的な史書のレベルに格上げしたということで、あらゆることで“破格”を成したのでした。

すべては思いのまま! とった風の後鳥羽院なのですが、しかし現実はそうでありませんでした。
百人一首歌をみてください。傍若無人の帝王が人生をつまらないものだと告白し、人間関係のあれこれに物思いしています。

後鳥羽院の異例には、彼の弱さに直結する異例もありました。というのも後鳥羽院、平家との騒乱の中で三種の神器なき即位をした天皇だったのです。後に「八咫鏡」と「八尺瓊勾玉」は見つかるのですが、「天叢雲剣」はとうとう見つけることができませんでした。これは想像でしかありませんが、皇室の武力の象徴たる天叢雲剣がないということは院にとって最大のコンプレックスとなったのでしょう。だからこそみずから作刀もおこない、北面に加えて西面にまで武力を配置した。

この末路が「承久の乱」です。みずから作り上げた武力への過信が北条義時追討の院宣に至った、神器なき帝王というコンプレックスは院の心を支配してやまず「あぢきなき世」は院の人生についてまわり、これを晴らすことのみが院の生きがいであり存在理由となってしまったのです。

乱後、後鳥羽院は隠岐に流されます。九条道家らによって還京の働きかけもあり、当然院も期待をかけていたのでしょう。

「言伝づてむ都までもし誘そはればあなしの風にまがふ群雲」(後鳥羽院)

しかしそれは叶わず60歳で崩御、隠岐に流されて19年の歳月が経っていました。その口惜しさは幾ばくか。しかし一方で、隠岐に流されたことはある意味院にとって幸福だったのではないかとも思います。

在島中、院は下命した新古今集をみずからさらに精選し「隠岐本新古今集」を完成、また隠岐で詠んだ「遠島御百首」を成すなど最晩年まで精力的に和歌と向きあいました。後鳥羽院は人生にまとわりついていたコンプレックスからようやく解放され、隠岐で「おもしろき世」を謳歌していた、わたしはそう信じるのです。

「人心うしとも言わじ昔よりくるまを砕く道にたとへぬ」(後鳥羽院)

(書き手:歌僧 内田圓学)

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