「歌語」とは和歌で用いられる言葉のことなのですが、これを辞書で調べてみると…
- 漢語などの外来語ではなく「大和言葉」である
- 俗語ではなく「雅語」である(例:「蛙」を「かえる」ではなく「かはづ」とする)
- 散文や口語(話し言葉)ではなく「文語」である
といった説明がなされています。
しかし私は、本質的には和歌に用いられる言葉のうちで「本意(ほい)」が明らかなもの、これが本当の「歌語」であると思います。
では「本意」とはなにか? 第一にはもの(自然景物)の美的本性です。移ろいゆくことが必定である「もの」の最もふさわしいあり方、そのものが最も美しく映える瞬間その場面のことです。そしてそれらを永遠に留めたいという人間の切なる希求心、これが本意の核心で、これが明らかとなっている言葉を和歌の「歌語」と言うのです。
ですから「歌語」とは単純な言語記号ではなく、人間のさまざまな感情と結合したイメージの凝縮です。歌語のひとつひとつが感情を持っているといえばわかりやすいでしょうか。
ではここで、実際の歌例をみて「歌語」の本質を知っていただきましょう。
以下に古今集に採られた「ほととぎす」三首を並べました、まずは初見でどのような印象をもたれたでしょうか?
(a)「いつの間に五月来ぬらむあしひきの山ほととぎす今ぞ鳴くなる」(よみ人知らず)
(b)「夏山に鳴くほととぎす心あらばもの思ふ我に声な聞かせそ」(よみ人知らず)
(c)「ほととぎす我とはなしに卯の花のうき世の中に鳴き渡るらむ」(凡河内躬恒)
これらの歌はじつのところ歌語である「ほととぎす」なくしは成立しません。仮に「鶯」や「鶴」などに置き換えてしまえば歌はあれよと破綻してしまう、それほど和歌とは「歌語」を前提にしてということです。
歌語における「ほととぎす」には、まず「夏の到来を知る」という意味があり、その「初音を聞きたい」という情が含まれています。ですから(a)のように『ほととぎすを聞いて五月を知る』ということになります。
さらにほととぎすには「恋心を助長させる」という意味があります、ですから(b)のように『もの思いにふける私に声を聴かせるな!』となるのです。またほととぎすは「死出の山路の案内人」という一面もありますから、それを踏まえると(c)は憂き世の後の連想さえも可能となるのです。
それではこれらの「ほととぎす」を踏まえて、以下の歌を鑑賞してみてください。幾重ものイメージが合わさった、複雑な情景が描かれるはずです。
「うちしめり菖蒲ぞ香るほととぎす鳴くや五月の雨の夕暮れ」(藤原良経)
「菖蒲(あやめ)」からは邪気を祓うほどの強烈な匂いがイメージが、つまり五月雨に湿るむせ返るような不快感が一面に現出。そして「ほととぎす」、先のように「思慕の念を掻き立てる」という設定がありますから、よって一首を通してみると、「慕えども叶わない、けれども愛しさは増していく、鬱々な慕情」といった複雑な世界が浮かび上がってきたのではないでしょうか。歌語の使い方如何で、歌の世界はこんなにも幾重にも広がることができるのです(これに本歌、本説取りが重なって、和歌はよりいっそう複雑な文学へと昇華します)。
和歌が三十一文字という制限のなかで複雑な情景、抒情を描けるのは「歌語」に凝縮されたイメージの賜物です。古今和歌集という、つねに人事と自然とが絡ませられていた芸術観照の態度によって「歌語」は培われ、以後、歌とはそれなしで成立しえなくなりました。平安後期から発展する「題詠」という形式も、題となった言葉の「本意」を詠むことにほかなりません。本意ある歌こそが、正しく良い歌なのです。
和歌とはそのはじまりから言語芸術として完成されていたのであり、その完成度ゆえに歴史の大河を下ってなお今に至って、物語、謡曲、連歌、俳諧などの和文学はもちろん、絵画を中心とする美術工芸の意匠にまで日本文化の抒情と美意識に深く息づいているのです。歌語はいわば大和民族の表現の典型でありまさに文化の礎、普遍的な古典中の古典であるのです(俳句の「季語」もそのひとつの名残です)。
ということで和歌を正しく詠むために、必ず「歌語」を正しく深く理解するようにしましょう。
(書き手:和歌DJうっちー)
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