令和和歌所では「和歌」を詠んでいます。ここで湧いてくるのが、和歌と(現代)短歌の違いはなにか? という素朴な疑問です。
表面的に明らかなのは、和歌は「大和言葉(やまとことば)=和語」のみを用いて詠むということです。そもそも「和歌」というもの自体が「漢詩」に対して定義された文芸なのであり、ここに和歌という文学のアイデンティティーが端的に表れています。
一方、明治以降のいわゆる(現代)短歌はこのような制約は一切ありません。漢語だろうが外来語だろうが好きに用いてよいのです。
では和歌と(現代)短歌において、内面的な違いはあるのか? じつのところこの二つには表面的な言葉以上に、大きな隔たりがあります。
以前、「和歌とはなにか?」 について、ざっくりと解説しました。
→「和歌とは? 『美を志向する、大和の音楽(みんなで仲むつまじく)』である」
ここで短歌とは和歌における形式のひとつであると説明しました。「万葉集」など古代歌謡をご覧いただくとわかりますが、元来和歌には「五・七」の繰り返しいかんで「長歌」や「旋頭歌」といった形式があり、そのうち三十一文字の型式が「短歌」と呼ばれたのです。それが平安時代の初代勅撰集「古今和歌集」のころには「短歌」が不動の型式として確立され、和歌の基本となったのでした。
これを前提としつつも、わたしたち一般的に抱く和歌と短歌の違いは、多くが古い三十一文字が「和歌」で、最近のそれが「短歌」だと理解していると思います(これを強調するために(現代)短歌と言うのです)。しかし、明治時代までは和歌は常に最新の文芸でした、いや、今だって和歌を詠めばそれは最新なのですが、これを旧態のものとし、短歌を最新(現代)のものだと言い張りだしたのは明治の歌人、あえていうなら正岡子規に始まります。彼は和歌を古くてくだらない文芸だと断罪し、自分ら新進の歌人が詠む歌こそが現代にふさわしい歌すなわち(現代)短歌であると主張したのです。そしてこれが拍手喝采! 民衆に大いに受け入れられ、今に至ります。
子規の文章は明確で、わたしが読んでも胸がすく思いがします。例えば彼は「十たび歌よみに与ふる書」で、『ただ自己が美と感じたる趣味をなるべく善く分るやうに現すが本来の主意に御座候』と論じています。この視点に立った時、和歌とは極めて不自由でつまらない文芸だと言えるでしょう。
ではここで和歌と(現代)短歌の違いを実感してもらうため、以下のとおりランダムに歌を並べてみました。いずれがそれであるか、こころみに判別してみてください。
※和歌は平安、短歌は明治期の詠み人です、イニシャルがヒントになるかもしれません
(一)「君がため春の野に出て若菜つむわが衣手に雪はふりつつ」(K.K)
(二)「はたらけどはたらけど猶わがくらし楽にならざりぢつと手を見る」(I.T)
(三)「思ひつつ寝ればや人の見えつらむ夢と知りせば覚めざらましを」(O.K)
(四)「柔肌の熱き血潮に触れもみで寂しからずや道を説く君」(Y.A)
(五)「かめにさす藤の花ぶさみじかければたたみの上にとどかざりけり」(M.S)
(六)「わが宿に咲ける藤波たちかへりすぎがてにのみ人の見るらむ」(O,M)
(七)「湯どころに二夜ねむりて蓴菜(じゆんさい)を食へばさらさらに悲しみにけり」(S,M)
(八)「月見れはちぢに物こそ悲しけれわが身ひとつの秋にはあらねど」(O,T)
(九)「どくだみも薊(あざみ)の花も焼けゐたり人葬所(ひとはふりど)の天明けぬれば」(S,M)
(十)「藤衣はつるる糸はわび人の涙の玉の緒とぞなりける」(M,T)
いかがでしょう、たぶんそれほど難しくなかったと思います。回答はこちら。
『和歌』は(一)光孝天皇、(三)小野小町、(六)凡河内躬恒、(八)大江千里、(十)壬生忠岑、『短歌』は(二)石川啄木、(四)与謝野晶子、(五)正岡子規、(七)斎藤茂吉、(九)斎藤茂吉
子規の主張を要約すると、「自分が感じたままの美しさを、わかりやすく表現する」ということになります。それは端的に「写実主義」といい表されます。ですから(二)「苦労にまみれた手」、(五)「畳」や(七)「蓴菜」のような生活臭の強い語、(九)にある「人葬所(火葬場)」といった穢れを伴う言葉までも平気で歌に詠むことができます。(四)は与謝野晶子の有名な恋歌ですが、(三)の小野小町のそれといかに違うか? それは端的にパッション! です。「触れもみで」なんて男性を積極的に誘うことは、「待つ」を理想とする平安女性は絶対にしないでしょう。
明治期に「写実主義」が生まれたのは、もちろん時代背景が理由です。そう、舶来モノの「個人主義」です。写実(自分が見たまま)とは「個人」の存在なくしては成り立たない行為です。現実の風景・生活を切り取る優れたフレーミングなんてのは、主体的かつ明確な個人・個性あってこそですからね。明治の人間たちは個人主義に心酔し、文芸はじめ旧来のつまらないものをぶっ壊したのでした。
さて、一方の和歌をご覧ください。(一)にある早春の「若菜摘み(子の日の御遊び)」や(六)で誇らしげに咲く「宿(邸宅)の藤波」などには極めて貴族的な匂いがします。そもそも和歌の聖典とされる勅撰集は天皇勅撰による「ハレ」の歌集ですから雅であって当然ですし、仮に悲劇をテーマとする哀傷歌であっても優美を決して離れません。(十)の「涙の玉の緒」と(九)の「人葬所」で歌われた哀悼の情景には天地ほどの隔絶を感じます。
実のところ和歌が明治まで文芸の中心であり得たのは、これが皇室で育まれた文芸であったからです。個人主義などない時代には、ひたすらいにしへの風雅を踏襲するだけでも価値があったのです。とはいえ、時代時代で歌人たちは歌に新風を吹き込もうと苦悩し続けました。この果実が「新古今和歌集」や「玉葉和歌集」であったり連歌や俳諧への発展なのですが、正岡子規の一撃で和歌文芸は見事にノックダウンしてしまいました。
といことで(現代)短歌は「現代人による個性(我、ワレ、われ)を発揮する文芸」であり、和歌は「すでに死んだ=古典文芸」という理解が成立したのです。ただこれは文明開化の明治人による、いわば「子規的和歌史観」にすぎません。わたしは和歌が死んだなんて思ってませんし、ですから現代においても和歌は詠めると考えています。
ではここで話は冒頭の問いに戻ります、和歌と(現代)短歌における「内面的な違い」はなにか?
偉大なる先達、藤原俊成がここに明確な答えを示しています。
倭歌の起り、そのきたれること遠いかな。千早振神代よりはじまりて、敷島の国のことわざとなりにけるよりこのかた、その心おのづから六義にわたり、そのことば万代に朽ちず。かの古今集の序にいへるがごとく、人の心を種としてよろづの言の葉となりにければ、春の花をたづね、秋の紅葉を見ても、歌といふものなからましかば、色をも香をも知る人もなく、なにをかは本の心ともすべき。この故に、代々の御門もこれ 捨て給はず、氏々の諸人も争ひ翫ばずといふことなし。
(古来風体抄 上)
和歌とは「本の心」を表すことである!
本の心とは端的に個々事物の美的本性であり、そのさまざまな様相を三十一文字の歌によって示す、これが和歌という文芸の言葉よりも重要な本質なのです。
俊成は歌論「古来風体抄」で本の心の源流を古今和歌集に求め、以後の勅撰集に採られた種々の歌を鑑賞することで本の心の多様な様相を知ることができると説きました。これは裏を返せば、和歌の作者は古今集以来の勅撰集に学ぶことが必須であり、これらを踏まえた歌でなければ和歌ではない、すなわち単なる短歌でしかないということです。
和歌と短歌違い、おおよそお分かりいただけたと思います。
(書き手:歌僧 内田圓学)
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