二十四番「このたびは幣もとりあへず手向山紅葉の錦神のまにまに」(菅家)
大江千里に続いて学者がご登場、菅家こと菅原道真である。ところで大江の血筋は栄えて後には大江匡房(百人一首では権中納言匡房)なる異才も生んだ、和泉式部などもその筋だ。一方の菅原、道真を最後に歴史の表舞台から消えてしまう。道真晩年の悲劇※は語るまでもなかろう、残した子もあったが子々孫々彼を超えるものはなかった。いや、菅原を超えるような人傑は以後の日本文化史において出なかったかもしれない。道真は大学者であり、誠の政治家であり詩人であった、すなわち時代が生んだ奇跡であったのだ。
逸話に事欠かないが、特筆は彼の家集だろう。平安の始め、文化の羨望はひとつ唐代詩人白楽天による「白氏文集」であったが、これを打ち破ったのが道真の「菅家文草」である。それはかの風雅の帝王醍醐をして「平生所愛白氏文集七十巻是成 今以菅家不亦開帙(もう白氏文集はいらん、今後は道真の家集だけ見よう)」とまで言わしめた。
前の大江千里も「句題和歌」なる家集を編んだが、前に説明したようにあれは単なる翻訳であった。道真は違う、白楽天を十分に吸収した上で伝統的な日本美と止揚し、「漢」に対抗しうる「和」として新たに打ち立てたのだ。遣唐使廃止の進言も道真の仕事であったが、これは偶然の出来事ではない。道真がいなければ国風文化は数十いや数百年遅れていたかもしれない。
その才能は百人一首歌にも垣間見える、所収は古今集、詞書には「朱雀院の奈良におはしましたりける時に手向山にてよみける」とある。朱雀院とは寵愛をいただいた宇多上皇であり、一種のおべっかだがそれに収まらない。行幸の無事祈願の幣を紅葉に託すという風雅、なによりそれを行って嫌味がないという本物の歌人であったのだ、菅原道真という偉人は。
※「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花主なしとて春を忘るな」(菅原道真)
(書き手:内田圓学)
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