【百人一首の物語】二十五番「名にしおはば逢坂山のさねかづら人に知られでくるよしもがな」(三条右大臣)

二十五番「名にしおはば逢坂山のさねかづら人に知られでくるよしもがな」(三条右大臣)

「王朝の幕開けと伝説歌人」、「失意に乱れる純血の貴公子」と続いた王朝物語はここらで新たな章を開く、それはさしずめ「聖帝の輝き」とでも言うべき栄光の時代だ。
「延喜・天暦の治」という言葉をご存知だろうか、醍醐天皇(延喜)と村上天皇(天暦)の治世を理想的聖代として仰ぎ見た呼称で、その理由は両朝とも摂政、関白を置かず天皇親政を行ったことに由来する。これに百人一首歌人あてがうと今回の二十五番藤原定方から梨壺の五人のひとり大中臣能宣あたりまでが該当するが、これは驚異だ! なんとなれば二十五番から四十九番、百首のうち四分の一がこの「聖帝」時代に詠まれたものではないか。

天智天皇(飛鳥時代)から順徳院(鎌倉時代)までを勘定するとおよそ550年くらいの分厚い歴史があるが、百人一首はわずかこの50年ばかりの延喜・天暦朝に詠まれた歌に偏っているということになる。ちなみに百人一首の出典元で勘定しても古今・後撰で三十首を占め、その次の拾遺集を加えると四十一首となり、いかに三代集に偏重しているかがわかる。

これはもちろん撰者たる定家の伝統主義の表れであるが、それ以上に和歌がいかに「延喜・天暦の治」の時代に集中的に鍛えられたものであったかを暗示していよう。和歌とは、天皇の遊戯であり権力の象徴であったのだ。それを証明するように、藤原氏が権力をほしいままにした一千年代は勅撰集編纂が止み、白河天皇まで待つことになる。絶対的な権力つまり安定と平和なくしては和歌などという風雅は生まれないのだ、本来は。

さて、二十五番の詠み人は三条右大臣こと藤原定方、藤原兼輔(中納言兼輔)とともに貫之ら醍醐朝の歌壇を後援した。百人一首歌は後撰集に採られたもので、詞書には「女につかはしける」とあり、なるほど「逢坂山のさねかづら」などと聞こえ麗しいが、「逢いたい」「さあ寝よう!」とスケベ心が隠し切れていない。

(書き手:内田圓学)

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