二十六番「小倉山峰のもみぢ葉心あらば今ひとたびのみゆき待たなむ」(貞信公)
平安時代とはまさに表向き平安であって、その前半、歴史に残る武力紛争は平将門、藤原純友の乱くらいであった。この時代の権力はもっぱら謀略によって定まったようだが、その実本質的には時の“運”こそが万事を左右したといえよう。かの藤原道長も五男坊であって本来氏長者には遠かったが、有力な兄道隆、道兼が相次いで病に倒れたことで権力が転がり込んできた。今回の貞信公すなわち藤原忠平もご多聞に漏れない、宿敵菅原道真を謀略一途で片づけた兄時平が39歳で早世してしまった結果、弟である忠平にお鉢が回ってきたのだ。
百人一首歌は拾遺集よりの選出、詞書をみると「亭子院(宇多上皇)が行幸で訪れた小倉山の紅葉を醍醐天皇にも見せたいなぁ」というお気持ちに応えて詠んだとあり、ほとんど二十四番の道真と同じようなシチュエーションだ。しかし道真のような風雅に乏しく、精一杯のおべっかに終わっている。歌人としては無念であるが、この献身的態度こそが忠平の才能であったことだろう、実は彼には時平との間にもう一人兄がいたのだがそれを出し抜いている。これはやはり忠平の人柄が時の帝王に愛されたのだ。
(書き手:歌僧 内田圓学)
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