八十七番「村雨の露もまだひぬ真木の葉に霧立のぼる秋の夕暮れ」(寂蓮法師)
さらに続く坊主は寂連です。鎌倉新仏教の隆盛はまだちょっと先ですが、歌において時代はすでに中世です。
寂連は俗名を藤原定長、叔父であった藤原俊成の養子となり従五位上・中務少輔と順調に出世する有望な若者であったようです。しかし俊成に次男定家が生まれたころ出家、以後は仏道よりも歌道により熱心だったようで、有名な「独鈷鎌首」のエピソードはその好例でしょう。
時は建久四年、藤原良経による主催で「六百番歌合」が催されました。くしくもこの歌合は六条藤家と御子左家の全面対決の様相を呈し、おのおのが家の威信をかけて歌を競い合うという、まさに“歌合戦”となりました。なかでも勝負に強いこだわりを見せたのが六条藤家の顕昭と御子左家の寂連で、「顕昭は独鈷を、寂蓮は鎌首を立てて、毎日口論を交わした」と白熱のバトルの様子が記されています※。
こんなのを読むと寂連にはたいへん好戦的な印象を受けるのですが、じつのところその歌歌はすこぶる穏やか。百人一首歌などはその代表です。
「村雨の露もまだ乾いていない真木の葉のあたりに、霧が立ちのぼる秋の夕暮れよ」
和歌で晩秋の風景といえば当然に「紅葉」が詠まれるべきなのですが、寂連はこれをあえて無視。「真木」つまり杉や檜などの色が変わらない葉に霧が立ちのぼる、深山の夕暮れの美しさを歌に詠んだのでした。
寂連は定家や家隆などと比べるとけっして目立つ存在ではありません。しかし歌に革新を目指す態度はだれよりも御子左家の歌人でありました。先ほどの「独鈷鎌首」も、万葉集を重んじ旧態依然とした六条藤家の態度がなにより気に入らなかったかもしれませんね。
さて、寂連の「秋の夕暮れ」といえば、こちら「三夕」の一首も有名です。
「さびしさはその色としもなかりけり真木立つ山の秋の夕暮れ」(寂連)
百人一首歌とほとんど同じ風景です。しかし受ける印象が全く違うのは寂連の上手さにほかなりません。
百人一首の方は主観を除外し、湿気を帯びた山の風情をよどみなく結句の夕暮れへと集約。一方で三夕は「さびしさ」という主観があり、また三句で切る配合の構造にしている。この声調の違いによって同じモチーフを使いながらもウェット、ドライといった印象を描き分けているのです。おそれいります。
手練れの寂連は「新古今和歌集」の撰者も担いました(残念ながら完成を待たずに亡くなるのですが…)。定家、家隆らにとっては、身近にいる大先輩というのが寂連という歌人だったのでしょう。
寂蓮、顕昭は毎日に参りていさかひありけり。
顕昭はひじりにて独鈷を持寂蓮は鎌首をも立てていさかひけり。
殿中の女房、例の独鈷鎌首と名付けられけり。
井蛙抄(頓阿)
(書き手:歌僧 内田圓学)
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