歌塾 月次歌会(令和三年十一月) 題「九月尽」 ※判者評付き

歌塾は「現代の古典和歌」を詠むための学び舎です。初代勅撰集である古今和歌集を仰ぎ見て日々研鑽を磨き、月に一度折々の題を定めて歌を詠みあっています。

令和三年十一月は以下の詠草が寄せられました。一部を抜粋してご紹介します。

題「九月尽(秋暮れる)」

「うちむれてていろは紅葉の散りぬるを我が身ばかりか踏み惑ひける」

判者評:『いろは歌』をもじった歌。紅葉はうちむれて(群れて=仲間)と散るのに、私ばかりは一人(悟りも開けず)迷っているということか。もじりが強く、意味がわかりづらい。

「コスモスの色の朝もや萌え出づる春より春になりにけるかも」

判者評:コスモス(秋桜)をもじったか。秋なのに春より春とは面白い。「朝もや萌え出づる」がきびしいか。

「あけぬれば今宵かぎりの秋の月尽きせぬ言葉露と消えつつ」

判者評:何が「あけた」のかわからない。「秋されば」とくれば、「飽きがきた」となって、見事な空しき和歌らしい恋の歌となる。

「募る思ひ紅葉のごとく散り積もる秋の終はりに誰ぞ吹き去る」

判者評:恋の思いが募ってあふれそうな歌。それをだれが吹き去ったのか、とするのは少し違和感。「誰のために散り積もったのか」とすれば面白い。例えば…「陸奥のしのぶもじずり誰ゆえに乱れそめにしわれならなくに」の連想から「もみじ葉の色に染まりて誰ゆえに散ぞ積もりしけりわれならなくに」

「澄み渡る高き空のみ仰ぎ見てひとり残るる木守柿かな」

判者評:面白い歌。和歌で「柿」は詠まれないが、和歌的声調のある見事な「ただごと歌」だ。

「末枯れる野辺をうるほす秋時雨消えゆく色をしばしとどめむ」

判者評:「末枯るる」となる。自分が時雨ではないので、「しばしとどめよ」と命令形がいいのでは

「衣打つ吉野山こそくれなゐをあをの松葉に綴り織るらめ」

判者評:悩まされる歌。晩秋の風物「砧」と吉野山の取り合わせ。「砧」はアイロンのような役目だが、綴り折るとある。なにか本説があるのだろうか? 「紅葉の衣を横の縦抜き」、「青の松葉」を針に見立てて綴り織るのだろうか面白い。ただそれなら「松葉が」だが、「松葉に」とあるので違うかもしれない。

「襟をまとふ風は玉梓つたふるは白き秋去り冬冷えの玄」

判者評:難解な歌。「襟に絡みつく風が玉梓に伝言する」とある。秋が去り、冬が来たというメッセージか。秋を白、冬を玄とするのは陰陽五行の思想だが、わざわざ色を出す理由が見当たらない。

「水仕事ゆらりゆるりとあきぬやう冬支度せむ井水はぬくし」

判者評:実感を得た歌、声調が和歌らしくないが、このような「ただごと歌」を詠みたいものだ

「風露のふきわける葉もなかりけり君のとまりぞ幣(まひ)の唐衣」

判者評:三夕の響きがある。もみじはすでに散り果てて、落ち葉の幣(ぬさ)を衣に見立てたか? 素直に「もみじ葉をわきて深山をさまよえば衣や秋のとまりなるらむ」とした方がわかりやすい。「風露」とは聞かない、幣(まひ)も聞かない。

「ほの暗きゆふべのかげに松の葉の色も黒みて秋ふけにけり」

判者評:秋の移ろいを常緑の松に得るという、面白い歌。常套句でない分、新鮮さがある。色の繊細な発見は素晴らしい

※歌塾には初学者の方がたくさんいらっしゃいます。和歌は遠い古典教養ではありません、現代でも十分楽しめる座の文芸なのです。私たちと一緒に、古典和歌を「書き」「詠み」「遊び」つくしましょう。どうぞみなさま、お気軽にご参加ください。

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