辞世の歌 その13「願はくば花の下にて春死なむその如月の望月のころ」(西行法師)

あまたの辞世の歌のなかでも、もっとも知られるのがこの一首だろう。
もしも願いが叶うなら春の桜の下で死にたい、二月の満月のころに。二月(旧暦)の十五日は釈迦入滅の日であり、花と月は西行が生涯追い求めた数寄の象徴でもある。すなわち歌と仏という、ある種の二律背反する道を一途に歩んだ、歌僧西行という人間が見事に凝縮された一首だ。

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今となってはこの歌を批難するようなものはだれもいないと思うが、しかし西行という巨人の名を払って「願わくば」を見ると、難がないわけでもない。例えばかの御大俊成卿はこのように評した。

「願はくばと置き、春死なむといへる。うるはしき姿にはあらず…」(御裳濯河歌合より)

壮麗なさまを規範とする和歌においては、「死」などという言葉はふさわしくないというわけだ。一方で歌中に「花」と「望月」とを合わせているのも問題だろう、要するに主役の競合であり、演出過剰なのである。これでは壮麗を飛び越えて、人によっては秀吉の「黄金の茶室」よろしく奇怪さを感じてもおかしくない。しかも細かいことをいうようだが、西行自身はこの歌を辞世などとはまったく考えていない。歌の成立は不明だが、先の「御裳濯河歌合」は文治三年(1187年)であるから、遅くとも彼が亡くなる(1190年)3年前にはこれを詠んでいたわけだ。

ではなぜこの歌に私たちは惹かれるのか。それは西行が歌の願いどおり、如月望月の日に往生したということにある。
実のところ西行という人は生前中は歌人として僧侶として、ほとんど知られた人間ではなかった。確かに頼長の「台記」にその名が記され、御子左家の歌人らとの交流はあったが、そこまでの人だったのである。彼は決して都顕貴の間に互角に迎えられる身分の人間ではなかった、その証拠に当時宮中で開かれた歌会に彼の名はまったく出てこない。

その名を爆発的に高めたのが、「願はくは」の歌どおりに彼が死んだという事実である。晩年に交流があった御子左家の歌人、特に定家は西行の生前から彼に心酔していた貴重な人物であったが、西行の死を聞いて悲しみと同時に感動で胸を撃ち抜かれた(はずだ)。定家はすぐさま西行への哀悼の一首を捧げている。

建久元年二月十六日、西行上人身まかりにける。終り乱れざりけるよし聞きて
「望月のころはたがはぬ空なれど消えけん雲のゆくへかなしな」(藤原定家)

定家だけではない、俊成も慈円も… 西行へ心からの哀悼を歌にした(西行の歌を本歌にして)。ここに西行は歌道における伝説となったのである。西行の神格化は後鳥羽院によっていよいよ確立し、新古今和歌集では最大の九十四首が採られた。そして「西行物語絵巻」、「西行物語」、「西行一生涯草紙」などの数々の物語が編まれ、今の私たちに伝わる。

もちろん西行は生得の歌人である。「願はくば」にある花と月と死の共演など、西行のほかに詠めるものなどいなかった。西行こそが和歌に「こころ」を与えた、いはば初めての人であったのである。しかし、今にここに伝説の歌人として伝わる西行の姿は、あの歌、「願はくば」なしにはなかったのだと私は思う。

(書き手:歌僧 内田圓学)

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