歌塾 月次歌会「立夏」(令和五年五月)※判者評付き

歌塾は「現代の古典和歌」を詠むための学び舎です。日本美の結晶たる初代勅撰集「古今和歌集」を仰ぎ見て日々研鑽を磨き、月に一度折々の題を定めて歌を詠みあっています。
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令和五年五月の歌会では以下の詠草が寄せられました。一部を抜粋してご紹介します。

「閑かなる緑陰の道にこだまする季節はずれのうぐいすのこゑ」

判者評:穏やかで気持ちのいい夏の日、そんな折に鳴くのが時鳥ではなく、「鶯」であった。いわば「返り花」ならぬ「返り鶯」の歌。和歌的四季感では、夏に鶯は完全に締め出されているが、現実は夏になっても鶯はよく鳴いている。あくまでも和歌的文脈においての俳諧歌だが面白い。「緑陰」の漢語は外すことができないだろうか、置き換え可能なら選ばない方を選びたい。また四句目の「季節外れの」が説明くさい。たとえば「緑葉の茂りに茂る夏山にふりにし声で鳴けるうぐひす」

「風そよぐ清き青葉をみてもなほ散りぬる花を恋ふる我かな」

判者評:夏の青葉、それは清々しくもあるが、はやり春の花が思い起こされる。春を思慕する哀切の歌。「そよぐ」のは「清き青葉」であるから、正しくは「風にそよぐ」とすべし。結句「我かな」が取ってつけたよう。例えば「清らなる青葉ぞそよぐ枝みてもたつことかたき花の思ひで」

「花染めの袖のにほひもうすれゆく今日たちかふる夏衣かな」

判者評:春の形見として袖に移した匂いも薄れゆく今日、夏の衣に着替える、春への思慕と新しい気分が止揚した素晴らしい歌。「今日たちかふる夏」とはすなわち「立夏」であり、それは「花染めの袖のにほひもうすれゆく日」であり「夏衣にかへる日」である。春と夏が交差する、微妙な感情を見事に捉えている。

「やへ桜ちりぬるのちに緑ひとへ着たるは木々の衣がへかな」

判者評:こちらも花から葉への変化が詠まれているが、否定的な印象はない。これは虚しき移ろいではなく、日常の衣替えだったのだ、という機知的趣向。「八重」と「一重」が対比されており、また桜木を擬人化するなど技巧も光る。

「白衣(しろきぬ)に こもれびうつし まとふれば涼しき夏の風や吹くらむ」

判者評:木漏れ日が写る、白妙の夏衣に替えてみたところ、そこに涼しい夏の風が吹いてきたのだろうか。とても涼やかな初夏のワンシーン。夏衣に対し、「こもれびうつし」と「涼しき夏の風や吹くらむ」のふたつの趣向が合わせられているが、どちらかひとつが限界だろう。例えば「しろたへの夏の衣を着てみれば袂すずしき風ぞ吹きける」、なんとかあわせて「清げなる木漏れ日うつすしろたへのころもに渡る夏の涼風」

「衣をばけふ白(しら)かさねにたちかふるたわに咲きたる卯の花のころ」

判者評:衣を白重ねに着替えた今日、たわわに卯の花が咲いた。衣の「白」重ねと卯の花の「白」を合わせた歌。二句目が八文字、また上句は下句の序ではなく取り合わせになっている、そのため明確に切った方がいいのではないか、すなわち「衣をば白らかさねにぞあらたむる・たちかふる」。

「卯の花の垣根しののに濡れそぼちほととぎすつと鳴きてさ渡る」

判者評:卯花がしっとりとびっしょり濡れて、ほととぎすが急に鳴き渡る。こちらも上・下句で風景が取り合わせの関係になっている。ただこの関連性が読みづらい、和歌的には単なる景の取り合わせは好まれず、なんらかの因果をつけたい。また「しのの」と「濡れそぼつ」は重複(歌病)してるといえる。よって「ほととぎす鳴きて渡れるわが宿に卯の花さへも濡れそぼつかな」(ほととぎすの鳴き声で、私だけでなく卯花まで濡れてしまった)

「恋あらば花橘ぞたまくらのそでに秘めをきその香聞かまし」

判者評:もし恋心があるのなら、手枕した袖に秘めた花橘の香りを聞きたい。当然ながら「五月待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする」を踏まえた歌だが、この歌で男は「五月待つ」より女へのアプローチが強い、というか「五月待つ」にひと押し追加した一首のようだ。「花橘ぞたまくらの」と文脈を一度切って、結句で「その香聞かまし」と結んだのが妙。

「身に代えて君をささへし橘の花咲く庭に媛のおもかげ 」

判者評:和歌で「橘」といえば先の「五月待つ」が常套でいわば神格化されているわけだが、それ以前にも「橘」に由来する物語があることを学んだ。「代えて」は「代へて」、内容など直すところがないが、あえていうならば「庭」では少々野暮なので「杜」としてはどうか。

「夢の間にふたばあふひを結ぶともかれぬる野辺の草ぞ露けき」

判者評:愛しい人に夢で再開できても、現実の逢瀬はかれたまま。式子内親王の「忘れめや葵を草にひき結びかりねの野辺の露のあけぼの」の本歌取り。式子の歌は夏歌で幸福感を得られるが、こちらは恋の匂い強くしかも「逢わざる恋」の歌である。「ふたばあふひ」に賀茂の「双葉葵」と「二ば逢ふ日」(強引だが)を掛けるか、また「枯れる」と「離れる」が掛かるが、初夏に草が枯れるのは合わない、「露けき」も秋にふさわしい風景。なんとしても式子内親王の歌を本歌取りしようという意気込みは感じる。

「入日射し緋色に燃ゆる花躑躅霧島山の焔に似たり」

判者評:夕陽に照らされた躑躅を霧島の炎に見立てた歌。詠み人のユーモアセンスが光る。「島津公爵邸」だからこその連想だと思うが、もしかしたら夕陽に照らされた躑躅は本当に、燃える火山のような激しい色をしていたのかもしれない。

「花もややなづさひけりな雨もよにやまぬながめを愛でしばかりと」

判者評:「やや」はわずかに、「なづさふ」は水面にただよう、「よに」はたいそう。よって「花がわずかに水面に漂っている、雨もたいそう止まない長雨を愛したとばかりと」。言わんとすることは分かるが、口から先に言葉が出て、歌として整理されていない印象。「雨もよに」と「やまぬ」との連結だが、もしかして「雨もよう」はだろうか、雨模様に眺めするということ。それでも「雨模様」と「長雨」は重複(歌病)となってよくない。結句「愛でしばかりと」の主体がはっきりしない「花」か「雨」か「詠歌主体」か。一番の問題は、夏ではなく春の景であること。趣向は個性的なので、整理すると「散りてなほなづさひけりな桜花やまぬながめを愛づるごとくに」

「袖日よけ川面をわたる涼風に前をゆく君ふと振り返」

判者評:袖日をよけて川面をわたる涼風、そこに前を歩く君がふと振り返った。写実であろう、君とはもちろん恋人、青春の1ページである。初句「袖日よけ」が分からなかった。「振り返る」後に「風が吹いた」としたらもっといいのではなか、たとえば「言葉なく前を行く君ゆくりなく振り返るより風ぞ吹きける」

「しぶき上げ戯る乙女の薄衣これは夢かと心ときめく」

判者評:「しぶき上げる乙女」とは、おそらくビーチで遊ぶ水着女性なのだろう。一言で天晴な夏の歌である、和歌の情趣にこだわっていては詠めない歌である(これができるのは僧正遍照くらいだろう)。

「筑紫野やかなしぶ人は見えねども五月雨に聞く不如帰かな」

判者評:和歌で「筑紫」というと特別感がある、「筑紫歌壇」である。奈良時代の神亀から天平年間に太宰府に滞在し万葉集に歌を残した著名な歌人集団は万葉集筑紫歌壇と呼ばれてる。とくに大宰帥大伴旅人邸で開かれた「梅花宴」32首はその名を知られる(歌集・万葉集約4500首のうち、筑紫で詠まれた歌は約320首がある)。当時「梅」は唐から渡ってきた新奇な先進の文物のひとつでした。歌は大宰府近郊でも盛んに詠まれ、豊かな文化が育まれました。ここではそのような「歌枕」としては詠まれておらず、おそらく詠み人と関係のある地なのだろう。なぜ「かなしぶ人は/見えねども」なのか、歌だけではわからない。ただ願わくばこの「悲しみ」を分かち合いのに、それは叶わず、一人五月雨の中、ひとりホトトギスを聞いて、悲しさを募らせる孤独な作者が見える。

「寿ぎの日に青嵐吹き騒ぐしのぶよすがはすめろぎの蔭」

判者評:『青嵐』は青葉のころに吹くやや強い風、せいらん。想いしのぶ頼りはすめろぎ(天皇)の蔭だけであるよ。『国営昭和記念公園』は昭和天皇在位50年を記念して造られた国営公園、吹き騒ぐ青嵐とは世間の喧騒であろうか。そんな中、作者はひとり昭和天皇の影を慕ってその御代を偲んでいる。天皇への信仰心を強く感じさせる歌である。

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