歌塾は「現代の古典和歌」を詠むための学び舎です。初代勅撰集である古今和歌集を仰ぎ見て日々研鑽を磨き、月に一度折々の題を定めて歌を詠みあっています。
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令和四年七月の歌会では以下の詠草が寄せられました。一部を抜粋してご紹介します。
題「盛夏」
「繋ぐ手にかよふ思ひを隠さなむ空にとどろく大輪の花」
判者評:若干想像力を働かせる必要があるが、初々しき恋人同士が手を繋いで、汗や心臓の音などで気持ちが伝わって溢れる気持ちがばれないように、ごまかしてくれ夜の花火よ、といったところか。「大輪の花」が恋の歓喜を象徴しているよう。夏、夜、花火といったら青春の恋といういことで、甘酸っぱいユニークな歌だ。
「さらさらと野川の水にさりてゆく夏のカラーはシャツよりも白」
判者評:「カラー」はサトイモ科の花。「襟」に掛かっており、「さる=晒る(さらす)」と「シャツ」はいわば縁語。野川にさらされたカラーの花は、シャツよりも白いという言葉遊びからなる歌。「さらさらと」と「さりて」というリズムもいい。
「にがうりの黄の実うれゆくゆふづくよすだれのうちにものおもふらむ」
判者評:「苦瓜=ゴーヤ」、苦瓜は熟すと緑から黄色になる。その色と夕月夜が対照されている、ここに個性と新奇性がある。上句は「ものおもふ」主体の序詞であり、つまりそれは御簾の裏で待ち続ける女の嘆息を象徴するだろう。
「五月やみ沢のほたるは夜さへも照る日持ちつつくるしかるらむ」
判者評:なるほど、私たちは闇夜に蛍で癒されるものだが、当の蛍としても闇が続きくのはつらかったのだ。夜に「照る日」がでることなどありえないが、それほど蛍はひかりを求めているのだという逆説的な切迫感を感じさせてくれる。面白い一首だが、「五月雨」の題がよりふさわしかった。
「うたたねにふるさとみゆるここちしてふとめさむればせみの鳴きをり」
判者評:詞書に「いともまれなる蝉の声に」とあり、作者は現在蝉の声がめずらしい土地に住んでいることがわかる。そんな地で蝉が鳴き、その声に懐かしさをおぼえたという、素直な懐旧の歌。一首の構成は「橘の匂ふあたりのうたたねは夢もむかしの袖の香ぞする」などの変形であるが、これは多様な場面で使えるということがわかる。「見ゆる」「目覚める」から「鳴き声」つまり視覚的作用の原因が聴覚にあることに違和感がある。それを和らげるとして『耳をすませば蝉ぞなきぬる』など。「をり」は王朝和歌では聞きななれない用法。
「ひもすがら虫の羽の音のたえざるを見ればまがきにひとむらの花」
判者評:一日中絶えない虫の羽の音、この音の先を見れば一群の花があった。俗と雅が対照された歌になっている。瞬間的な音に気付き、思わずみれば〇〇があった…という構成はよくあるが、ずっと音がやまない中で「見れば」とする動作は若干の違和感を抱く。例えば…『たえねどもまがきの花は知らぬ顔なり』
「ひぐらしの声の澄みたる風を浴み時を忘るる野辺の夕映え」
判者評:疑問のひとつもない良い歌。めずらしくない風景かもしれないが、風を「浴む(あむ)」というところに一首の眼目があり優れた歌にしている。
「夏座敷風鈴の音ささやけば揺らいで答ふたまだれの小簾」
判者評:風鈴と小簾(こす)の会話。写生か想像か、いずれにしても風雅でユニークな一首。ただ「夏座敷」、「風鈴」、「たまだれ(玉垂れ=玉すだれ)」、「小簾(こす・すだれ)」と景物が雑然としている。たとえば『雨を呼ぶ風鈴の音ささやけばそよと答ふる軒のたまだれ』とすると、「雨が降るよ」と呼びかけたの対し、「そうだね」と答えたような物語が生まれる。
「夏山の繁(しじ)に生ひたる忘れ草忘らえぬ身のなぐさめとせむ」
判者評:「わすらえぬ(わすら+え(ゆ)+ぬ(ず))」で、助動詞「ゆ」は万葉集に見られる古語、現代では「忘れえぬ」。「繁(しじ)」という使い方は正しいか? 辞書に見当たらないず、こちらも万葉集由来か。「忘れ草」は、自分が昔の恋を忘れるために用いる場合(万葉集)と、人に忘れられること、その象徴(古今集)となる。歌は前者の用法だと考えられるが、忘れたくても忘れられない恋の慰めとするということで、はなから忘れ草に積極的に頼る心はないが、それだけ忘れられない恋だという訴えを強くしている。古語を巧みに用い、深い心の様相を詠んだ優れた一首。「忘れ草」と「忘れらえぬ」は歌病ともなり、避けるなら…『弱る心のなぐさめとせむ」など。
「夏の日に青海の原の耀(かがよ)ひて果てには雲の峰ぞそびゆる」
判者評:夏といえばこれ、といった絵葉書になりそうな大海原と入道雲の風景。しかし現代的には典型的な夏の情景だとしても、和歌では挑戦となる。「耀ふ」は万葉集に用例があるが、平安和歌にはめずらしい。「そびゆる」も歌は分からないが文学では用例がある。「夏の日」「耀ふ」「そびゆる」と若干説明調になっているのが残念。「雲」と直接的な表現を避け、「白き峰」などすれば軽減されるか。
「鳴る神のとどろきし空しづまれば風ぞ涼しき夕立のあと」
判者評:一群の夕立と夕暮れ、しづまる「音」と涼しき「温度」とが対照された写生的であり技巧的な歌。「とどろきし」はすでに過去の事象となっており、「しづまる」のは必然的、また上の句で夕立が描かれており、結句で再び「夕立のあと」と出してくる必要がない。これらを直すとすれば…『鳴る神のとどろく空はしづまりてやがて涼しき夕暮れの風』
「三つ四つ蛍飛びかひたそかれの川辺ほのかに夏を点しぬ」
判者評:穏やかで懐かしき夏の風景。蛍たちが黄昏の川辺にやんわりと夏を「点しぬ(とぼしぬ)」す。詠んでやろうではなく、穏やかに心のままに口をついて出てきたような、そんな優しい夏の風景だ。
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