あかね歌会 令和五年十二月「不遇恋」※判者評付

令和和歌所では、いにしえの和歌を継承し令和の世にふさわしい「歌集」を編むことを目指しています。二十三代の集に採られた歌は除きますが、空飛ぶ鳥が網を漏るように、水に住む魚が釣針を逃れるように… 撰集に漏れた優れた歌を集め、わたしたちが詠んだ令和の和歌と合わせて、あたらしい和歌のアンソロジーをつります。
「あかね歌会」はそのための研鑽そして歌を集める場です。題を設け、月に一度のペースで歌を詠みあい批評を行っています。ぜひみなさま、奮ってご参加ください。

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和歌を詠みあい、評し、継承する「蒐(あかね)歌会」

令和五年十二月の歌会では以下の詠草が寄せられました。一部を抜粋してご紹介します。

判者詠草

あふことはかたくえ解けぬ下紐のつれなきころも恋ぞまされり(圓学)
みちのくにあるてふ野田の玉川のながれてもなほあふよしのなき(攝津)
逢はで寝る夜のなみだに思ひあらばせめて浮かべよ虹の架け橋(木喬)

みなさまの詠草

「契りとてあだなきものと知りながらまだ見ぬ花の匂ひぬるかな」

判者評:約束したといっても儚いものを、そうと知りながらまだ見ない花が匂うごとく、まだ見ないあなたへの思いが残っている。見たことがない人へのやる方ない感情を、まだ見ぬ花の匂いとした。ありそうでない、新規で見事な暗喩である。素晴らしい。

「涙のみ身を知る袖の村雨の逢はぬ日数をかぞへてぞ降る」

判者評:涙のみが我が身を知らしめてくれる。涙の村雨が逢えない日数を数えながら降っている。こちらは「身を知る雨」ならぬ「身を知る袖」であるが、先ほどの「身を知る野辺」と比べれば同意の範囲だろう。涙で濡れた袖のありさまによって我が身を知るということは分かるが、一首全体を眺めると不明瞭は否めない。「涙」とあり「村雨」とあり袖を濡らすものが二つある、また下の句「村雨が逢わない日数を数えて降る」とはどいういうことか。混乱の原因は主語だろう、「われ」と「村雨」の主語をひとつにして、一首の趣旨を簡素にまとめる必要がある。例えば「逢へぬ日をかぞへて降れる村雨に身を知る袖は濡れにぞ濡れし」。場合によっては「身を知る〇〇」へのこだわりを捨ててもいいだろう。

「御年になりてまことにおもひそむ恋なぞ何ぞあるうちなりけり」

判者評:この年になって心から思いはじめる、恋なんて何だ! あるうちがいいのだ。老いらくの恋の歌、しかしこれがやっかいで、人生のなかで最も深く思いはじめてしまった。この心はどうすればいいのだろうか、ほおっておくのがいいのか、忘れた方がいいのか? 作者はこういう、恋なんてのはその心があるうちが最も素晴らしいのだと。つまり老いらくの恋の全肯定である。とても力強い歌である。

「千鳥鳴く佐保の河瀬のさざれ浪あふせなき夜もやむ時なくに」

判者評:千鳥が鳴く佐保の川の小さい波ではないが、逢うことがない夜もやむことがない。上の句のいわば序と下の句の心情が絶妙の配合を生んでいる。「佐保川」は奈良の歌枕、多く千鳥とともに詠まれる。「さざれ」は「小さい」の意で「さざれ石・波」という語もあり、万葉集以来の古語、結句の打消しの詠嘆も「なくに」も万葉の匂いが濃い言葉である。本歌はこれだろう「千鳥鳴く佐保の河瀬のさざれ波止む時もなしわが恋ふらくは」(大伴郎女)。郎女は行き戻りする細かい波の動きに止むことのない恋の心情を重ねたが、歌ではその序をそのまま用いている。また歌の下句には「やむ時がなくに」だけあり、明確な「恋慕」の心情は詠まれていない。本歌を知ってこそ歌の意味が醸成されるのだが、「浪」と「瀬」の縁語は工夫としても本歌への依存度が高い一首といえるだろう。

「遥かなる雲居のはての月なれば逢はで死ぬるもさだめなるらむ」

判者評:遥か遠く雲の果てにある月のようなあなただから、逢わないで死ぬのも運命なのだろう。決して叶わない恋、遠い人、身分違いの恋… いろいろと物語を想像させる歌である。「逢はで死ぬる」では完了となるので「逢はで死なむ」としたい。

「いつしかとたのむの雁もとはずして身を知る野辺に秋風ぞ吹く」

判者評:いつかと頼みにした、田面の雁(すなわち手紙)も絶えてしまって、自分の身のほどが知れる野辺に秋風が吹くではないが、飽きられてきたことがわかる。「頼み」と「田面」、「秋」と「飽き」の掛詞、「雁」の暗示、「身を知る野辺」といった常套句の発展など、見どころ満載の歌である。こういった場合技巧に心情が負けてしまう場合が多いが、そうならずに抒情も見事に表現されている。手練れの一首で、作者は歌作りを心底楽しみながら詠んだことだろう。

「しきたへの枕に落つる月影をなぞりて思ふ音にきくひと」

判者評:枕に映る月影をなぞって想像する、うわさでばかり聞くあの人。一人寝の様を枕に映る月影としたのが妙、なんとも妖艶で美しい逢わざる恋である。「月」は先の歌にもあったように「遠い存在」としても成立するが、「月影」とすると、逢ったことがある人物の「面影」が強く出て「不遇恋」の匂いが薄れる感じがする。また「陰」から「音(うわさ)」と転じるのが若干の違和感を抱く。よって「しきたへの枕に映る月影をなぞりて偲ぶ恋ぞわびしき」とか(ここでは「遇不逢恋」の意とした)

「片糸のあふもあはむもふくかぜのゆくへさだめぬ君がまにまに」

判者評:片糸がよりあうのもあわないのも吹く風によって定めが分からないように、片思いする私が逢うのも逢えないのも、あなた次第である。糸は本来より合わせて使う、これを片思いに掛けて不安定な恋歌に見事仕立てた。「ゆくへさだめぬ」に「吹く風」と「君しだい」の両方が掛かっているが別々にしたい、すなわち上の句を序詞として明確にする「吹く風にゆくへも知れぬ片糸のあふもあはむも君がまにまに」

「君もまた見上げゐるにや冬の夜のおもかげ浮かぶあの六連星」

判者評:恋するあなたもまた見上げているだろうか、冬の夜御面影がふかぶあの六連星(むつらぼし)を。六連星すなわち「昴」に恋人を重ねたロマンチックな歌。「(見上げ)ゐる」が不自然、「仰ぎ見む」あたりが妥当。「あの(六連星)」というのは現代的な使い方である。また月ではなくあえて昴に面影が浮かぶとしたのはいかがだろうか(「あの」とした意味は、もしかしたら谷村新司への哀悼の心か)。ただ六連星を歌に詠んだのは新しい着想で素晴らしい。よって「君もまたおなじ夜空を仰ぎ見むおもかげ浮かぶ六連星かな」

「恋すれどあふこ無き身の心にはふりつむ嘆きばかり負ふなり」

判者評:恋をしても「あふご」ならぬ「逢うこと」がない身の心には、ふりつむ歎きばかり背負うようだ。「あふご」は荷物に通して担ぐために用いる棒のこと、天秤棒。「あふご」の掛詞から「積む」「負ふ」と縁語で構成された巧みな歌。ちなみに古今集には「人恋ふることを重荷と担ひもてあふごなきこそわびしかりけれ」がある。詞を優先したためか「ふりつむ(歎き)」、「ばかり(負ふ)」と無理に含んだ言葉が声調をさまたげている。例えば「恋すれどあふこなきこそ辛からめなげきを負ひてゆく由もなし」。

「霞立ちいづくともなき香りするこえぬ山ぢの桜花かな」

判者評:霞が立ってどこからともなく香りがする、まだ越えていない山路には桜花があるのだろう。こちらもまだに見む人を霞の奥の山桜に喩えた。このようなレトリックが散見されるということは、本会のレベルが随分上がってきた証だと思う。ただこの歌は、二句目が説明的でもったいない。たとえば「越えられぬ山路に立てる霞には奥こそ花の盛りなるらめ」とか

「逢ひ見るを夏の夜空に祈りしも想ひつつはや雪降りにけり」

判者評:逢える日を夏の夜空に祈りつづけて、もはや雪が降るまでになった。祈るしかない待つ女の苦悩の歌、しかし星と雪とが美しい情景を描いて幻想的にしている。「逢ひ見る」は「逢い見む」がふさわしく、夜空に逢瀬を祈るのは「牽牛・織女」だろうか、であれば「秋の夜空」がふさわしいだろう。また「祈り」と「想い」は重複表現といえる。よって「逢ひ見むを秋の夜空に祈れるも雲晴れぬまま雪ぞふりける」

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