「和歌史の断崖を埋める、近世(江戸時代)和歌の本当」第五回 賀茂真淵と万葉集

方便とみた万葉集が目的となってしまったということは、言いかえると万葉集のうちに彼自身を見出したということです。では真淵のみた万葉集の和歌はどういうのであったか。彼は晩年に「歌意考」という歌論を発表しています。これは彼の歌論としては代表的なもので、かつて断片的に書きつづったもの一つに取りまとめた感のあるものです。彼の文章は彼の主張をしながらもきわめて簡約で、それでいて熱意をはらんだものでした。

「歌意考」の主意は、彼が万葉集の歌を尊うのはなぜであるかと彼自身の経験を通じて説く点にあります。彼も幼少から三十代頃までは、その当時の堂上家の歌風を是認していました。堂上家歌道の源流である、藤原俊成、定家、西行などの歌を模範と仰いで、それに対して非難めいたことをいう彼の両親をさえ無知のいたすところ、と思っていたのです。しかし次第に源流に遡って万葉集の和歌を知るにおよんで、後世の和歌いかに誤ったものであるかを悟ります。そこにはどういう相違があったのか?
後世の和歌には知識が加っている、儒教、仏教など、風土と政治体系とを異にしてあるところの法が交じってきて、心としては意識的に、表現としては技巧的になってしまって、天地と共に変わるところのない、人間の性情の自然に反したものとなってしまっていると思ったのです。

しかるに万葉集の歌は、それら後天的の知識に汚されたところがなく、人間の性情の純粋さをそのままにあらはしたものである。この純粋さはいかにしてあるかというと、当時の人は心が一本気でまっすぐだった、一本気だから言うことも少ない、しかし反面、言う時には高い声をして、すなわち熱意をもってしていた。しかもその言葉は不生の言葉で知識を解さない、直接的な言葉をもってしている。これが真淵が見た万葉集の歌であったのです。
彼は心を奮い起こしてこの後世風から、かの上世風へと移りました。それは後天的の知識を捨てさることでありました。そして結局、「世の中というものは、物なく事なく、いたづらなる心をも悟らへ」というところまで至り、そしてこの心こそが、万葉集の心であることを知ったのです。

「歌意考」の主意の他の一件は、和歌の推移を皇威の推移につないだところにあります。和歌の純粋な時、即ち藤原、奈良の宮の時代は皇威が振るっていた、その純粋が失われて知識的となった平安京の頃は皇威もともに衰へてきた、和歌を上世風にかえらせるということは、そのまま皇威の振っていた時代の精神にかえらしむることで、これによってそれもなしうると言う考えであったのです。これは彼の古学者としての信念で、古学と和歌とを関係させた理由もそこにありました。
古学者の方面は置いて、第一の新古今風より万葉風へかえるということは、これを今日から見れば自然のことのように思われますが、その当時としては思いもよらない、飛び離れた、極めて異常なことであったことを理解しなければなりません。

当時の和歌は、藤原定家以来の四百年、偏にその流風を追って、いささかの動揺もなかった「和歌」です。契沖は江戸時代の和歌の改革者だと言われていますが、これも真淵の目から見れば権威者定家の仮名づかいを訂正して、その意味でその権威を疑いはじめたにすぎない。また当時としては驚くべき卓見を抱いた荷田在満でさえ、和歌の頂点は新古今集にあると言っていた時代。その時代にあって、ひとり真淵のみが敢然として新古今集風を排し去り、ひとえに学問的にのみ扱われていた万葉集を、学ぶべき唯一の歌風としたといふことは、当時としては、まことに驚き呆れるほどの言説であったのです。

ここで我々は、近世における万葉集の発見と復古は明治の中頃、ことに正岡子規あたりの働きにあったと考えるのが通例になっていますが、それは安易に過ぎることが江戸期の賀茂真淵のなしたことを知ればわかるはずです。つまり真淵がいなければ子規も茂吉も出ず、現代に繋がる万葉風短歌の流れさえもなかったかもしれないのです。
私は真淵に敬意を表するとともに、彼の万葉風和歌の一部をここに引いておきます。【つづく】

真淵の歌はまことに万葉にかえっています。これに比べれば、子規の歌はその理想とした万葉に届ていなかったことがわかるでしょう。
「雲雀あがる春の朝けに見わたせばをちの国原霞棚引く」(賀茂真淵)
「故郷は春の暮こそあはれなれ妹に似るてふ山吹の花」(賀茂真淵)
「にほとりの葛飾早稲の新しぼり酌みつつをれば月かたぶきぬ」(賀茂真淵)

(書き手:和歌DJうっちー)

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