小野小町 ~絶世の美女伝説を超えた、歌人としての小町~

小野小町は九世紀に活躍した女房歌人で、紀貫之による『古今和歌集』仮名序において「六歌仙」の一人に選ばれた実力派の歌人です。

もしかすると、平安の女流歌人の中でも最も有名なのがこの小野小町でしょう。
しかしその名声は、「歌人」としてよりも「絶世の美女」として知られているのではないでしょうか。いわゆる「世界三大美女(小野小町・楊貴妃・クレオパトラ)」という、出どころの定かでない伝説がそれを象徴しています。

実際のところ、小町が美貌であったという確かな記録はありません。「百夜通い」などの逸話によって形成された後世のイメージにすぎないでしょう。しかも、その恋の相手とされる「深草少将」は四位の少将にすぎず、当の小町も宮廷に仕える一女官でした。
他の二人――亡国の美女・楊貴妃とクレオパトラ(七世)――と並べるのは、いささかスケールが違うと言わざるをえません。せめて世界三大美女を考えた人には、持統天皇や式子内親王くらいの高貴な女性を挙げてほしかったところです(美人かどうかは別ですが…)。

ということで、小野小町は「風貌」ではなく「歌才」でこそ語られるべき人です。
冒頭で述べたように、六歌仙に唯一選ばれた女流歌人であり、和歌における「恋歌」を文学として完成させた歴史的存在なのです。

「花の色は…」の一首

小町といえば、まず百人一首のこの名歌が思い浮かびます。

花の色はうつりにけりな いたづらに
わが身世にふる ながめせしまに(小野小町)

風景と心情が技巧を介して見事に融合した、和歌を代表する妖艶な一首です。
ちなみに、この歌を採録した藤原定家は、小町への“返歌”として、自身の歌を採ったのではないかと勘繰っています。

こぬ人を まつほの浦の 夕なぎに
焼くやもしほの 身もこがれつつ(藤原定家)

ただし、小町のこの歌は「四季(春)」の部に収められたもの。
彼女の真骨頂はやはり「恋歌」にあります。
和歌における恋が文学として成熟したのは、小野小町ひとりの力によると言ってよいでしょう。

激情から余情へ──小町が変えた恋歌のかたち

『万葉集』にも優れた恋歌は数多くあります。大伴坂上郎女や笠郎女の歌は技巧・情感ともに秀逸ですが、どこか激情的で、いかにも「万葉ぶり」です。
これは、当時の文学が中国詩の影響を強く受けていたことによります。恋の詩として伝わったのが「閨怨詩(けいえんし)」――出征した夫を思慕し、その薄情を怨じるという詩型でした。

閨中少婦不知愁 春日凝粧上翠樓
忽見陌頭楊柳色 悔教夫壻覓封侯
(王昌齢「閨怨」)

こうした詩は、感情を外に激しくぶつけるものが多く、結果として「激情の美学」となりました。
『万葉集』の女流歌人たちの恋歌も、愛する相手に向かって強く訴える形が基本です。

これに対し、小野小町の恋歌はまったく異なります。
彼女の歌は内省的で理知的。感情を抑えながらも深い情をにじませる――まさに「古今集的」な洗練を体現しています。
その内なる情熱こそが評価され、六歌仙に選ばれ、後に俊成・定家親子が「余情妖艶」の歌人として最も敬慕した所以です。


小野小町の恋歌十首

(『古今集』の恋の配列に準じ、恋の段階ごとに並べています)

(一)
花の色はうつりにけりないたづらに わが身世にふるながめせし間に
先に紹介した、小町、いや和歌を代表する一首!
ただしこれは古今集中の唯一「四季(春)」歌であり、小町本来の魅力は以下の「恋」歌にあります。

(二)
思ひつつ寝ればや人の見えつらむ 夢と知りせば覚めざらましを
あの人のことを思いながら寝たから夢で逢えたのだろうか。
夢とわかっていれば、そのまま目覚めなかったのに――切ない女心が現代にも響きます。

(三)
うたたねに恋しき人を見てしより 夢てふものはたのみそめてき
うたた寝に愛しい人を見て以来、夢という儚いものを当てにするようになってしまった…。

(四)
いとせめて恋しき時はむばたまの 夜の衣を返してぞ着る
昔は衣を裏返して寝ると、夢で愛しい人に逢えると信じられていました。
恋に悩む乙女の願いは、今も昔も変わりません。

小町の歌には「夢」がたびたび登場します。
それは「夢」が、御簾の裏に籠り、ただ待ち続けるしかない女性にとって、唯一の「希望」だったからです。

(五)
おろかなる涙ぞ袖に玉はなす 我はせきあへずたぎつ瀬なれば
泣くといっても、あなたの涙は「玉」程度かもしれません。けれど私の涙は「滝」のよう。
ときに小町は、頼りない男に強く迫ります。

(六)
秋の夜も名のみなりけり逢ふといへば ことそともなく明けぬるものを
「秋の夜長」とは言うけれど、愛しい人といれば一瞬のよう。
小町の恋歌でほぼ唯一といえる、恋の成就を詠んだ歌です。

(七)
夢路には足も休めず通へども うつつにひとめ見しことはあらず
夢の中では毎夜通ってくれるのに、現実ではまったく来ない――なんという皮肉。

(八)
うつつにはさもこそあらめ夢にさへ 人目を避くと見るがわびしさ
現実で冷たくされるのは仕方ないとしても、夢の中でさえ避けられるなんて。
頼みの綱である夢にまで背を向けられ、絶望が漂います。

(九)
今はとてわが身時雨にふりぬれば ことの葉さへにうつろひにけり
「もうお別れだ」と言われ、老いを重ねた今は、あなたの言葉さえ色あせてしまった。
誰も信じられぬ――自暴自棄の境地。

(十)
色見えで つろふものは世中の 人の心の花にぞありける
色には見えないのに、変わってしまうもの――それは人の心という花だったのね。
経験を重ねた小町の言葉には、恋愛哲学の深みがあります。

美貌ではなく、詩心こそ永遠

晩年の小町は、老いて身をやつした姿で伝わります。
「卒塔婆小町」をはじめとする謡曲「七小町」では、その衰えがかえって若き日の美しさを際立たせています。
なんとも皮肉なことですが、たとえ姿は変わっても、歌は変わらず輝き続けているのです。
真の美しさとは、言葉の中にこそ宿る――それを証したのが小野小町でした。

(書き手:内田圓学)

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