歌塾は「現代の古典和歌」を詠むための学び舎です。日本美の結晶たる初代勅撰集「古今和歌集」を仰ぎ見て日々研鑽を磨き、月に一度折々の題を定めて歌を詠みあっています。
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令和五年四月の歌会では以下の詠草が寄せられました。一部を抜粋してご紹介します。
「花散りて心許なき春の暮れに見てこそ行かめ井手の山吹」
判者評:春の王たる桜花が散ったあとの気晴らしに、晩春の山吹を見に行こうという趣向。ユニークだが、だからこそ「心許なき(待ち遠しい)」の詞が不自然に感じる。歌の本意としては「花散りて暮れ行く春の慰めに」などとしたい。
「吹く風に八重山吹の花にほひ暮れ行く春を惜しむころかな」
判者評:山吹の花の香りに行く春を思う。時間はとまることがない、だからこそ儚く美しい。見事な古典的一首で声調も麗しい。作者はすでに実力があるので、今後は自分の心「有心」で詠んでほしい
「しろたへの袖に匂へる藤花の浪に流るるうき身なりけり」
判者評:袖に藤の花の残り香がある。藤波の波に流れてしまうつらい身であることよ。「藤波」から「うき身」へと縁語的につなげた歌。しかしこれでは上の二句「匂ふ藤」が生きていない。たとえば「春尽きて水面に映る藤波の流れてつらきうき身なりけり」(※「波」、「流」、「浮く」の縁語で構成した)
「さきがけて風に散りゆく花見ては明日は萬朶の吹雪なるらむ」
判者評:とめどなき落花を見て、一面の花吹雪を思う。花の雪の見立てが美しい、また今ではなく「明日」という想像の世界にしたところが妙。「萬朶」の漢語も許されるだろう。ただ初句の「さきかげて」の意味が定かでなく残念。
「さくら花水にうかびてつどふればひろがりゆくは春の雲かな」
判者評:いわゆる「花筏(いかだ)」の景であるが、これが集まって「春の雲」と見立てたところが素晴らしい。和歌でも花を雲に見立てるのは常套だが、水面のk落花をこれに見立てたのは知らない。三句「ば」と四句「は」が続いて声調を悪くしている。「ひろがりゆくは」は「想像のイメージが広がる」という意味だろうか。直すなら「散り散りに川を流れてさくら花つどふみなとは春の雲かな」(※散り散りになった桜が、みなと(河口)で集まって雲となる、という趣向した)
「蒼天に散りし花びらふわふわり風と踊りていずこへか」
判者評:友則の「光のどけき」の情趣を感じる一首。ただそれより柔らかで悲壮感は少ない。詞選びがつたない、「蒼天」という固い漢語に「ふわふわり」という擬音が混ざってまとまりがない、また結句「いずこへか」が言い足りていない。主題を「どこへゆく」にした場合、「いずこへか散りてゆくらむ桜花暮れぬる春の風に吹かれて」、また「ふわり」とした場合は「うらうらと春のひかりにさそはれて春の桜はふわふわと舞ふ」(※「ふわふわ」を活かすため、初句を「うらうらと」とした)
「うつろふと知るや知らずや夕風の空波立ちて花ぞちりける」
判者評:夕暮れの落花の情景。 花よ知っているのか? この夕暮れはそれだけでなく春の終わりであることを、一日の終わりと春の終わりが重なって無常感を強くしている。であれば初句「うつろふと」より「暮れぬると」にしてはどうか。また「夕風の空波たちて」が混み入った印象を受ける、直すと「夕暮れに波と見るまで散る花の流れて早き時にぞありける」(※「波」に意味を持たせるため、縁語「流れ」を加えた)
「はるきぬと騒(そめ)きし人はいづこなるむなしき枝に草ぞ詠みらめ」
判者評:「春が来た!」と騒がしい人はいまいづこ? もはや花は失せ、それでもむなしく歌を詠んでいる。詠み応えのある趣向だが、詞を整理したい。例えば「春きぬと騒(そめ)きの人は失せにけり草の庵にてひとり歌はむ」(※騒(そめ)きし人」ではなく「騒(そめ)きの人」とした、私はひとりでも歌を詠もうという意を強くした)
「川ほとりひと雨ごとの花筏過ぎてかいろぐ若柳かな」
判者評:ひと雨ごとに花は散り、川を流れ来て、それによって若い柳がかいろぐ(揺れ動く)。花筏で柳が動くはずもないが、それだけ多くの花が流れ来るということ、見事な趣向の一首。「川ほとり」と「かいろぐ」を直したい、「花筏ひと雨ごとに流れきて揺りにしほどの若柳かな」(※「揺り」にはためらうという意味もある)
「春暮れて花ちりわたるかつしかや真間のつぎはし道まがふまで」
判者評:実景であろうが、万葉への憧憬をも感じる心深い一首である。作者はあえて倒置しているのだろうが、あえて句順を整えると「かつしかや真間のつぎ橋まがふまで花散りわたる春の暮れかな」
「年ふれば桜見る目ものどかなりちりゆくままの春の暮かな」
判者評:業平に「世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」があるが、これは若輩者の浮ついた心であって、老境に入るとこのように詠めるのである。本歌をもう少し強くしてみてはどうか「年ふれば春の心ものどかなり花散りはてぬ春の暮かな」
「花さそふ風のゆくへもしらぬままかすむ春日はいまくれゆきぬ」
判者評:「花さそふ風」に「かすむ春日」と優美な詞がつながり、暮れ行く春の虚しさより美しさを感じる。ただそれだけ、組み合わせの意味を大事にしたい。たとえば「花さそふ風のゆくへも見えぬまま霞のうちに春ぞ暮れるぬ」(※霞を春の行方を隠す存在とした)
「枯れてなほ見ずとは言はじハナミズキ今日やかぎりの色と思へば」
判者評:枯れてもなお見続けよう、今日が春の最後の日なので。伝統的な景物ではない「ハナミズキ」だが「見ず」と掛詞的用法で用いられいる。挑戦的だが、詞の心が調和したユニークな一首
「八千草のゑみたる花もうつろひて野の色に知る春のかぎりを」
判者評:野に咲く春の花々、その色の移ろいに春の終わりを知る。実景も感じられる情趣深い一首。難があるとしたら「ゑみたる花」、和歌ではこのような抽象的な形容は使いにくい。たとえば「うすくこき百の花園~」(※作者より、「八千草」とは秋の季語とのこと)
「春暮れてひらりひとひら島津山窓に映るは丸に十字よ」
判者評:旧島津公爵邸にて見た落花の情景、即興性があり面白い。「ひらりひとひら」は花の散るさまだろうが、これを明示したい。たとえば「島津山丸に十字の映りたる窓から見える花のひとひら」(※「丸に十字」と落花を合わせた)
「春風にそよぐ白帆を映しつつ揺らぐ水面にこころのどけし」
判者評:風雅な春風に揺られる舟遊びの情景。水面に白帆が写るという、描かれている風景が美しいぶん、結句「こころのどけし」が取ってつけたように感じる。よって「春風にそよぐ白帆にまかせてむ行方さだめぬ心の旅を」(※「水面に映る白帆」と別の色の取り合わせも面白いと思ったが、ここでは「春風にそよく白帆」の着想を広げた)
「蓮の葉にたまぬく露やをさむらむあをばこくする春のひかりを」
判者評:蓮の葉の上に春雨の名残であろう、露がおさまって、その色を濃く染める春のひかりを集めている。作者ならではの美しい春の情景が見事に詠まれている。難は「蓮」は夏の景物であること、また「たまぬく露」とあるが本来「露」のみで十分(玉を抜くのは糸である)。しかし金槐和歌集に「浅緑そめてかけたる青柳の糸にたまぬく春雨そふる」とあり、春の景であり、「糸にたまぬく春雨」という表現は「糸に抜かれる」とはしていないので、「たまぬく露」を転じて「露」としてもいいのかもしれない
「我が庭に咲く桃の花ほととぎす鳴く音な添へそ母の形見に」
判者評:お母さまの法要の時期に咲く桃の花に合わせるように、ほととぎすよ鳴いてくれるな、という哀切の一首。「ほととぎす」の声には多様な意味がある、「夏を知る」など知られるが、ここでは山路の案内人として、思慕を掻き立てる声として詠まれている。難は「桃の花」は初春、「ほととぎす」は夏の景で、晩春という題には沿っていない
「外つ国の大きなる船港入り響く霧笛は夏の香ぞする」
判者評:山下公園に外国船が入ってきて、その霧笛は夏を知らせる音のようだ。コロナもひと段落し、海外からの客人も増えていよいよ人流れが活発になりそうだ。「霧笛」が題の季節にあわない、また「夏の香ぞする」としたらそれは「夏」である。そもそも「汽笛」と「夏」は繋がるか疑問。直して「山下に汽笛の音を響かせて船とともにや夏は立つなる」(※「立つ」の縁語で景を繋げた)
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