三十四番「誰をかも知る人にせむ高砂の松も昔の友ならなくに」(藤原興風)
松、なかでも「高砂の松」が吉事の象徴であるとは、誰もが知るところでしょう。私の世代ではすでにネタでしかありませんが、結婚式の祝言として「高砂や~」と唸るのが珍しくなかった時代もあるようです。ちなみに謡曲「高砂」にはいわゆる「上歌」がいくつかあり、有名な「高砂や~」は後場(クライマックス)で謡われます、ですからこれを結婚式の最初の方で謡われてしまうと、後に続く人が困ってしまいます。
ところで松はなぜ吉事の象徴なのでしょう。それは移り行く季節に対して、葉を落とすことなく変わらぬ色をたたえ続けるからです。和歌で「松」が詠まれる場合は多くその永遠性の喩えとして、または「待つ」の掛詞(もしくはその両方の意)として詠まれるのが基本です。
当然ながら興風の高砂の松もその文脈で詠まれています、しかし作者の心持ちは決して幸福ではありません。いったい誰を親しい友にしたらよいのか、とこしえの松も昔からの友人ではないに。長寿とは人間の悲願であったはずです、しかし、このような歌に出会うとまことの幸福とは何か、考えさせられますね。
ちなみに余談までに謡曲「高砂」の話を続けると、松の名所としてもうひとつ「住吉の松」が登場します。高砂と住吉の松は「相生の松」と呼ばれ、それぞれに精霊が宿り、夫婦であるという設定になっています。ですから結婚式に相応しいんですね。さらに加えると、高砂とは上代「万葉集」の時代を住吉は今の御代つまり「古今集」が成った延喜(醍醐天皇)の時代(の象徴)だと明かされます。これは古今集仮名序の一節に故するエピソードですが、ようするに世阿弥は「高砂」の一曲に、末永き和歌の繫栄を託したのです。和歌ファンであれば見逃せない一曲がこの「高砂」です。
(書き手:歌僧 内田圓学)
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