六十一番「いにしへの奈良の都の八重桜けふ九重ににほひぬるかな 」(伊勢大輔)
当意即妙の歌のやりとり、和歌のダイナミズムを知れるのは以外にも!? 女房歌人の歌だったりします。百人一首では六十番台前半の小式部内侍と伊勢大輔、清少納言などが好例ですが、とくに六十一番の伊勢大輔の歌は女房どうしのやりとりから生まれたところに、ひとつのおもしろさが見い出せます。
伊勢大輔は、また? といった感じなのですが一条天皇の中宮彰子に仕えた女房でした。平安時代の日記、文学、随筆といった女房文学の著名なものはもほとんどこの彰子サロンから生まれていて、もちろんこれは偶然ではなく、権力者たる父道長がそのような方向へ導いたということであって、歴々の権力者と比較しても道長がたんなる策略家で終らない真の大物であったことがわかります。
「伊勢大輔集」 に記された歌が詠まれたシチュエーションをみると、旧都奈良から八重桜が献上され、それを受け取る役目を当初は紫式部が勤めるところを、新入り女房であった伊勢大輔が任されて、その際に歌を詠ませられたとあります。
九重とは暗に宮中のことなのですが、「いにしへ」と「けふ」そして「八重」と「九重」を照応させた技法と、晴れやかに描いた情景もあいまって、その場にいた道長はじめ彰子らはこぞって褒めたたえたといいます。伊勢大輔としては大いに面目を果たせたことでしょう。
一連から、穏やかで優美な宮中サロンの日常を伺い知れるのですが、じつのところ本人的には相当なプレッシャーがあったと思います、なにせ時の権力者その他大勢に試されているんですからね、このサロンにふさわしい人物かどうか! いや~こわい。
おそらく伊勢大輔も優秀な女房だったと思いますが、彼女に残るエピソードがほとんどこれだけなのは残念です。
(書き手:歌僧 内田圓学)
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