【百人一首の物語】九十一番「きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに衣かたしきひとりかも寝む」(後京極摂政前太政大臣)

九十一番「きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに衣かたしきひとりかも寝む」(後京極摂政前太政大臣)

良経は藤原兼実の次男、ちなみに兼実は五摂家の一つである九条家の祖であり、良経は「九条良経」とも表されます。天台座主で歌人としても知られる慈円を叔父に持ち、和歌や漢詩はもちろん書にも優れたと聞きますから、当代随一の貴公子といって間違いありません。

和歌は藤原俊成に学びました。これが抜群で、かの後鳥羽院も「不可思議なりき(常識がおよばない)」「地歌もなく見えしこそ(平凡な歌がない)」、「秀歌あまり多くて(上手すぎる!)」と、べた褒め。
その才能は一歌人におさまらず宮廷歌壇をけん引、歴史的な「六百番歌合」の主催し、また自ら和歌所の寄人筆頭となって新古今和歌集の撰修に関り仮名序までも書き上げました。新古今の一番歌が良経であり、またこれに西行、慈円に次いで七十九首が採られていますから、彼の存在感というものが十分にわかるでしょう。

しかしこれらが“光”の面だとすると、うらはらに無残な“闇”も抱えているというのが藤原良経という人です。

建久7年(1196年)、政敵であった源通親らの策謀に陥れられて父とともに朝廷から追放されてしまう「建久の政変」も悲劇のひとつですが、なんといっても彼自身の死です。
良経には良道という、父に将来を期待された長男がいました。しかし二十二歳の時に病で急死、父はひどく嘆き悲しんだといいます。九条家の期待を一身に背負うことになった良経でしたが、なんと彼も三十八歳の若さで夭折してしまうのです。この死因が不明で愚管抄には「寝死二」とだけあり、暗殺されたなんて噂も流れました。ともかく跡継ぎが相次いで亡くなる、しかも父よりも先に逝ったというので、九条家の絶望は生半可でなかったことでしょう。

虚構の芸術、和歌に歌人の人生を重ねるのはタブーかもしれませんが、良経の歌には彼の人生が映し出されているように思えます。気高さと美しさ、その背後ににじむ虚しさです。百人一首歌もそのひとつでしょう。

「きりぎりす(こおろぎ)が鳴く霜の寒夜、筵に衣の片方の袖を敷いて、ああ私はひとり寂しく寝るのであろうか」

言わずと知れた人麻呂の本歌取りです。
「あしひきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む」(柿本人麻呂)

しかし人麻呂の「ひとり寝」には万葉らしいおおらかさ、夜長を「山鳥の尾」にたとえたおかしみさえありますが、良経のは絶対零度の孤独に今にも凍え死にそうな… とても冗談など言える余裕はありません。
(ひとつ興味深いのが、人麻呂の歌が「恋」部で採られているのに対し、良経のは「秋」部で採られているんですよね。たしかに「きりぎりす」はいますが、「衣かたしき」なんてのは“訪れなき恋人”の表れでしかなく、待恋の苦悩が色濃く出ているのはどう見たって良経の歌なのですが、、)

時代背景も相まって、新古今歌人らの底流には総じて空虚感が横たわっています。しかしなかでも良経は、声調麗しい詞によって美を結晶しつつ、しかしそれは微細な雪の結晶で詠まれるや否や消えてしまう、そんな儚さ、つまり「デカダン」を極めていて、それがなべての歌※に漂っているのは異様といえるでしょう。
それは彼の人間的本質であったのか、生きながらで得た境地であったのか、いずれにせよ晴れやかで虚しきその人生が歌に表象しているように思えてしまいます。

※「吉野山花のふるさとあと絶えてむなしき枝に春風ぞふく」(藤原良経)
※「散る花も世をうき雲となりにけりむなしき空をうつす池水」(藤原良経)
※「消えかへり岩間にまよふ水のあわのしばしやどかる薄氷かな」(藤原良経)

(書き手:歌僧 内田圓学)

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