歌塾は「現代の古典和歌」を詠むための学び舎です。初代勅撰集である古今和歌集を仰ぎ見て日々研鑽を磨き、月に一度折々の題を定めて歌を詠みあっています。
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令和四年九月の歌会では以下の詠草が寄せられました。一部を抜粋してご紹介します。
題「仲秋」
「吹きむすぶすゑばの露のたまゆらにこぼしてかへす葛の裏風」
判者評:秋の野辺の風景。露の「たま」から「たまゆら」へと繋げたのが見どころの一つ。下の句の接続を「に」ではなく「を」にしたほうが自然。
「盃をかはす言葉は少なくて月をながめむ友ぞともしき」
判者評:「月下独酌」の雰囲気の歌。「かはす」が盃と言葉に掛かっていて、また「友」と「ともし(慕わしい)」が掛かっている。「盃」も「月」と掛かっているので、遊び心が十分にあらわされた風狂な歌。
「面影のなほとほざかる秋の夜は澄みわたれども心曇れり」
判者評:月影を昔の人のまさに「面影」として見る、それは遠ざかっていくが止める手段はない。空は澄み渡るように晴れていても、一方で心は涙で曇る。秋の情景と心情が美しく重なりあった恋の歌。
「をみなへしあけゆく空ゆ色まさり月夜ををしむきぬぎぬのとき」
判者評:「月夜」とあるが、逢瀬を惜しむ後朝の別れの歌。「女郎花」が「明けゆく空」の枕詞として巧みに用いられ、秋の情景と抒情を豊かにしている。
「大空におれる錦と見えつるは雲間にやどる月にぞありける」
判者評:使われている景物や詞はつねのものだが、「雲居の月」を「大空の錦」の錦を見立てたのは新しい。ただ、いわば単色の衣を「錦」とするには無理があるか。色とりどりの紅葉を錦を見立てるのは和歌の常套「嵐吹く三室の山のもみぢ葉は 竜田の川の錦なりけり」。声調が麗しいのは「る」の韻律によるもので、作者の工夫がみえる。
「鏡山くもらぬ秋の最中にはただ眺むらむ澄める望月」
判者評:仲秋の隈なき満月を眺めようというシンプルな歌だが、「鏡山」に工夫がある。「鏡山」は具体的な山ではなく「くもらぬ」を導くいわゆる枕詞、これが結句の「澄める望月」にまで響いている。ただ眺めるのは詠歌主体であるから、現在推量の「らむ」ではなく意志である「てむ」などが適切。
「こんもりと白磁の器にもられたる月の光のまろみくる宵」
判者評:月の見立てとして「鏡」「盃」ときて「白磁(はくじ)の器」ときた。眼前に迫るかのような月明かりのディナー、お腹いっぱいとい感じに月をいただいている。「こんもりと」も「まろみくる」がやわらかく、可愛くとにかく歌の個性となっている。※「まろみくる(来る)」は連語か、「まろみゆく」の方が自然な言い方ではないか。なにより器に盛られた月の光というのが新しく、こんな和歌もいいのだということを教えてくれる作品。
「秋風のいつしかなりしつめたさにつもりし恋も萩とこぼれる」
判者評:歌のねらいは「秋風がいつの間にか冷たくなり、私の恋も飽きられて、萩においた露がこぼれるように涙がこぼれる」ということだろうが、詞に過不足がありうまく伝わらない。「秋風」に「つめたい(冷淡)」の意味が含まれるし、「萩とこぼれる」では足りず「萩の露(涙)がこぼれる」とすべき。また「秋風」の時点で「恋」と言うまでもない。整えると…「秋風のやがてつめたくなりぬれば萩おく露のこぼれやむやは」
「穂に出づるしのぶの乱れ秋風にゆるぎてまどふ花すすきかな」
判者評:「忍ぶ恋」を「薄の穂」に見出した、これも古典的な景物や詞を使いながら新規の歌。ただ「穂に出でるしのぶ模様」は個人的にすんなりイメージできない。また、秋風が吹いて花薄が揺らいでまようように… 花薄にみえる乱れ模様… ということで、「しのぶの乱れ」と「ゆるぎてまどふ」という心情がたぶっていて歌がぼやけている。上の句を序詞として明確にすると…「秋風にしおれし薄の穂に出でてゆるぎまどへる我がこころかな」
「あめつちにひとしみちたる月あかり我が身ひとつを照らしもがな」
判者評:「あめつち」ときていわば古代的な神の始点の上の句から、「我が身にひとつ」と焦点が一気に個人に移り変わるダイナミックな歌。古典的には「我が身ひとつの秋にはあらねど」とくるが、これが「我が身ひとつを照らしてほしい」というわがままというより切望感を強く感じる歌。やはり月には神秘的な力があるのだろうか。「ひとし」は「等し」だろうから、「等しく満ちぬ」が適切。「照らしもがな」だが「もがな」は用言にはつかないので「照らしてしなが」など。
「宮城野の萩に置きたる白露にはかなく宿る秋の月かな」
判者評:詞、心の両面から王朝和歌をみごとに捉えており、初心者を脱している。「萩の露」と「露に宿る月」は古典的な風景ではあるが、これらが関連しあって歌に物語を生んでいる。つまり「はかなく」は言わなくても醸成されているので「一夜ばかりの月ぞ宿れる」など工夫の余地がある。
「つねならぬ月にしあればうきよにも光あれとや照りわたるらむ」
判者評:移ろい変わる月のような憂き世でも光もあると照り渡るのだろうか、と仏教的な宗教感の見える歌。「光あれとや」と「あり」が「あれ」と活用されているが、「光ありとや」が適切。「月をし見れば」としたほうが、作者の詠嘆がより強まる。
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