知っておきたい和歌の女神さま! 「佐保姫」「竜田姫」「衣通姫」そして「宇治の橋姫」

森羅万象に八百万の神が宿ると信じた古代日本人、和歌の自然詠においてもごく自然に神々を詠みあげています。今回はそんな中でも特に知っておきたい、四人の女神をご紹介しましょう。

佐保姫

佐保姫はその名のとおり東大寺にほど近い佐保川の北部に位置する「佐保山」に宿る神様です。山といってもなだらかな丘、昔と今では様子が違ったのかもしれませんね。

佐保姫は霞の衣をまとった「春の女神」とされ、機織りや染織が得意だと伝わります。ちなみに和歌ではこれらの特徴を踏まえて詠むことが常套です。

「佐保姫の霞の衣ぬきをうすみ花の錦をたちやかさねむ」 (後鳥羽院)

竜田姫

こちらはご存知の方も多いのではないでしょうか、竜田山の竜田姫です。竜田山は奈良県三郷町の山を指し、佐保山に比べたらちゃんとした山です。

「秋の女神」である竜田姫も機織りや染織が得意だったそうですから、佐保姫とは真っ向からぶつかるライバル関係だといえますね。歌の詠まれ方もこのとおり。

「見るごとに秋にもなるかな竜田姫もみぢ染むとや山も着るらん」(よみ人知らず)

そもそも佐保姫を春、竜田姫を秋の女神としたのにはこんな理由から。中国から伝わった「五行思想」では春夏秋冬(四季)と東西南北(四方)は「春-東」、「夏-南」、「秋-西」、「冬-北」という対応関係にありました。これを奈良時代、平城京を中心に適応して東の佐保山に春の女神を、西の竜田山に秋の女神を配したのです。

とすると… 春の女神は春日山の春日姫の方が相応しいんじゃないかとか、夏と冬の女神はどこへ行ったとか、いろいろ疑問が湧いて出ますが、まあ今日はおいておきましょう。ともかく和歌では、春の佐保姫、秋の竜田姫はなくてはならない存在です。

衣通姫

さて、先の女神たちに比べると現代の知名度は低いかもしれません。しかし衣通姫こそ、和歌でもっとも尊ぶべき女神さまなのです。

衣通姫、その名の由来は衣を通してなおも輝く美しさ。和歌に優れていたとされ、なんとかの「和歌三神」の一柱に数えられるほど。さぞかし素晴らしい歌を詠んだのだろうと思いきや、実のところ衣通姫の歌はほとんど残っていません。

小野小町はいにしへの衣通姫の流なり
あはれなるやうにて強からず、いはばよき女の悩めるところあるに似たり
(古今和歌集 仮名序)

と、このような仮名序の評価によっての間接的に知れるのみ、

しかし衣通姫が和歌三神にまで祀り上げられたのは、歌ではなく悲劇的な恋の伝説にあるでしょう。

古事記によると、衣通姫(軽大娘皇女)は允恭天皇の第一皇子である木梨軽皇子と恋仲にありました。実のところこの二人は母を同じにする兄妹であったのです。当時は異母の婚姻は認められても、同腹のそれは禁忌でありました。それでもなお熱い情を交わす二人、やがてそれは群臣ひいては父である天皇にも知れ渡ることになり、信用を失って軽王子は失脚、允恭天皇が亡くなったのちは弟である穴穂皇子が即位することになるのです。軽皇子は弟に対して謀反を起こします。しかし結果はもろくも失敗、流刑となり二人は離れ離れになってしました。

しかしこれで終わっては伝説になりませんよね。

「君が行き気長なりぬやまたづの迎へは行かむ待つには待たじ」(衣通姫)

なんと衣通姫(軽大娘皇女)、兄であり恋人である軽皇子の元へ自ら旅立ったのです。この強さ、小野小町というより和泉式部を彷彿とさせます。

閑話休題… さまざまな苦難を乗り越え、ついに衣通姫は愛する軽皇子のもとに至り二人は愛を遂げたのでした!  感動的ですよね(涙。しかし話は最後、二人の自害によって閉じるのです。

なんという悲劇! まるで「ロミオとジュリエット」はたまた「玄宗皇帝と楊貴妃」か。この一大恋愛ロマンスは古代日本人の感情を揺さぶったことでしょう。だからこそ、わずかな歌しか残さなかった衣通姫が和歌の女神として信仰を集めたのだと思います。

宇治の橋姫

「橋姫」というと一般的には「橋を守る女神」ということになりますが、古典的には宇治橋にいる女神を特に「宇治の橋姫」といって愛好してきました。
おもしろいのは宇治の橋姫が、時代によってまった違う姿で捉えられているということです。

みなさまがご存じなのは、もしかしたら「嫉妬深く怖い女、鬼女」の橋姫ではないでしょうか。妬ましい女を取殺すため、鬼になることを望み「丑の刻参り」をするというあの橋姫です。これは平家物語の「剣巻」で描かれた橋姫で、以来「橋姫」といえば鬼女というイメージが定着しました。謡曲の「橋姫」はもちろん、「鉄輪」もこの恐ろしい橋姫がモチーフになっています。
ちなみに江戸時代には、「橋姫」は橋のたもとに立つ街娼・私娼の隠語となっています。

そんなネガティブなイメージの「橋姫」ですが、じつのところ上代においてその姿はまったく異なります。それはまさしく「愛(は)し」姫です。

「さむしろに衣かたしき今宵もやわれを待つらむ宇治の橋姫」(よみ人知らず)

古今集に詠まれた橋姫には、恐ろしい鬼女のような姿はまったくありません。男の訪れをひとり待つ、美しい女として詠まれています。ちなみに「美しい」の根拠は、「または、宇治のたま姫」とある左注です。
元来の「橋姫伝説」は「山城国風土記」に記された、竜宮に行って帰らぬ夫をひたすら待つ女でありました。

宇治を舞台とした源氏物語「宇治十帖」にも、「大君・中君」を橋姫にたとえる歌があります。

「橋姫の心をくみて高瀬さす棹のしづくに袖ぞぬれぬる」(薫)

このように古典文学では「橋姫」を、男の訪れを待ち続ける美しい女として詠み継いできました。

「さむしろや待つ夜の秋の風ふけて月をかたしく宇治の橋姫」(定家)
「きりぎりすなくや霜夜のさむしろに衣かたしきひとりかも寝む」(良経)

 ※良経の歌に橋姫は直接詠まれていませんが、先の古今集歌の本歌取りをしています

このイメージを大きく変えてしまったのが先に記した「平家物語」なのです。この転機を考えると、宇治という場所が「血みどろの戦場となった」ことが、少なからず関係しているとわたしは思います。

(書き手:歌僧 内田圓学)

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