古今和歌集の代表歌人で好きな人を問えば、在原業平または凡河内躬恒、もしくは小野小町といった答えが返ってくるかと思います。かくいう私、もちろんダントツで貫之パイセンです。理知的と揶揄されますが、その裏に見え隠れするユーモアは抜群です。
しかし! この貫之にまさるエスプリに富んだ歌人をご存知でしょうか? それこそが今回ご紹介する「素性法師」です。実のところ、私は素性アニキの大ファンでもあります。
素性の父はかの僧正遍照、ということは桓武天皇の曾孫にあたります。高貴な血統ゆえ殿上人にまで昇ったといいますが、父の助言もあって若くしてそうそうに出家、その後は「歌」をつうじて宮廷とのつながりを持ちます。このような関係は後世の西行に限らず稀ではなかったということですね。
さて、私が愛する素性法師。その歌風は… まずなんといっても遍照の子ですからね推して知るべしですが、
ちなみに遍昭は古今集の仮名序でこう評されています。
「僧正遍昭は、歌のさまは得たれどもまことすくなし」
古今和歌集 仮名序
歌の風体は素晴らしいが、真実味(本質)に欠ける。
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まさにこれを受け継ぎながら、ユーモアと斜め上行くアイロニーを合わせ持った詠みぶりなのです。
素性も「寛平御時后宮歌合」に出詠していまから、貫之との交流もあったはず。しかし機知の天才貫之も、そのセンスでは素性には敵いません。まあ貫之は言ったところで勅撰集の選者ですからその風体を保っていたのかもしれませんが、それにしても素性法師ほど機知に富んだ歌人は八代集を見渡してもいないでしょう。
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ということで、今回は素性法師の十首をご紹介します。
(一)「散ると見てあるべきものを梅花 うたて匂ひの袖にとまれる」(素性法師)
「散ると思い見ていた梅の花を、ついつい触れようとしたばかりに匂いが袖に移っちゃったよ、あぁ最悪だぜ!」
この歌なんか、素性法師の皮肉ぶりがよく表れています。本心は花の匂いがついちゃって、よけいに忘れられない、心が乱れちゃう! という愛着の裏返しなのですが。
(二)「花ちらす風のやどりは誰か知る 我に教へよ行きて恨みむ」(素性法師)
「花を散らす風はどこから吹いてくるんだ」これは分かります、しかし下の句は「俺に教えろ、行って恨んでやる!」ですからね、普通の平安歌人では詠めないユーモアです。
(三)「木伝へばおのが羽風に散る花を たれにおほせてここら鳴くらむ」(素性法師)
木伝う主語はうぐいす、花を散らすのは己自身の羽風です。それがだれのせいだと言って、あちこちで鳴いているんだ! 春暮のあはれを誘ううぐいすが、素性独特の皮肉の趣向で詠まれています。
(四)「今宵こむ人にはあはじ七夕の ひさしきほどに待ちもこそすれ」(素性法師)
本当に素性法師は素直でありません。この歌の場面は七月七日つまり七夕です、そんな夜に会うだなんて「牽牛と織女みたいに年に一度しか会えない関係になるなんてい・や・だ・ぜ」。素性ワールドが炸裂しています。
(五)「主知らぬ香こそにほへれ秋の野に たが脱ぎかけし藤袴ぞも」(素性法師)
藤袴といえば「匂い」を詠むものですが、これはその名である「袴」も踏まえて詠まれています。
「俺の知らない匂いがしているぜ、誰が脱ぎ掛けたんだ、この藤袴は!?」。ここから浮気の修羅場が始まりそうですが、これはれっきとした「秋」の歌です。
(六)「音にのみきくの白露よるはおきて ひるは思ひにあへず消ぬべし」(素性法師)
これは数ある素性法師の歌の中でも、もっとも技巧が優れた歌です。
「きく」に(聞く)と(菊)を、「おく」に(起く)と(置く)を、さらに「ひ」に(思ひ)と(火)を掛けています。ちなみに「置く」と「消ぬ」は「白露」の縁語でもあります。つまり「秋の菊に夜置いた白露が昼に消えた」という風景の裏で「行くと聞いので夜起きていたが、結局来なかったので昼に思いが消えてしまった」という複雑巧緻な歌なのです。
いやーおもしろい。しかもこれで「秋」に採られていますが、どう考えたって「恋」ですよね。実のところ素性の皮肉は恋歌でこそ十分に発揮されるのです。
(七)「今こむと言ひしばかりに長月の 有明の月を待ちいでつるかな」(素性法師)
百人一首にも採られた恋歌ですが、素性法師にあってこの歌がいかに平凡であるかがお分かり頂けるでしょう。
(八)「思ふどもかれなむ人をいかかせむ 飽かず散ちりぬる花とこそ見め」(素性法師)
「思えども離れてしまった人、あの人のことをどう考えればいい? それは飽き足らないけど散ってしまう花と見よう」
「かる」が(離る)(枯る)に掛かっています。素性のエスプリ、やせ我慢の美学ですね。
(九)「秋の田のいねてふ事もかけなくに 何を憂しとか人のかるらむ」(素性法師)
こちらも恋歌です。「いね」に(去ぬ)(稲)が、「かる」に(離る)(刈る)が掛けられています。
素性法師は貫之にも劣らぬ技巧派ですが、素性の歌の方が裏でイメージされる情景が豊かに感じます。
(十)「山吹の花色衣ぬしやたれ 問へど答へずくちなしにして」(素性法師)
この歌のユーモアがお分かり頂けたでしょうか? 説明しましょう。歌にある「山吹の衣」の色、これは実際の山吹の花で染めるのではありません「梔子(くちなし)」を代用して染色していたのです。ようするにこうです、問へど答えない、なぜなら「口無し」にして、「梔子」にして。なんちゃって!
爆笑ですよね。しかもただのユーモアではなく、なんだかオシャレ。これこそが素性アニキの真骨頂です。
気品ある笑いと皮肉、これが貴族文学たる古今和歌集に多様性とエスプリを加えています。
もし古今集に素性法師がいなかったら、ただのクソ真面目でそれこそつまらぬ歌集に収まっていたかもしれません。
(書き手:歌僧 内田圓学)
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