古今集をはじめとする歴代の勅撰和歌集は四季歌と恋歌を二大テーマに据え、これらを時間的推移によって整然と配置していることが最大の特徴です。しかしこの「美学」が歌集ごと隅々まで行き渡っているかというと、実のところそうはなっていません。例えば賀歌や羇旅歌そして雑などはそれぞれの部内でおおまかな小グループに分けられても時間的推移ではまとめられていないのです。しかし唯一、四季と恋以外で勅撰集の美学を宿す部があります、「哀傷歌」です。
哀傷歌とは人の死を悼んで詠まれた歌、古今集にはその数三十四首が採られています。四季歌が三百四十二首、恋歌が三百六十首ですからその比重は決して大きくありません、しかし時の天皇、太政大臣などを偲んだ歌も含まれていますからおのずとその意味合いは大きかったことでしょう。
さてその哀傷歌の時間区分ですが、大きく「埋葬」、「喪」そして「在りし日の回想」の大きく三つに分けられます。今回は古今和歌集の哀傷歌から、上の三区分ごとに秀歌を鑑賞してみましょう。
埋葬時の歌
前太政大臣を白川のあたりに送りける夜詠める
830「血の涙落ちてぞたぎつ白河は君か世までの名にこそありけれ」(素性法師)
詞書の「前太政大臣」とは、承和の変を起こし臣下としてはじめて摂政に昇った藤原良房を指します。「送る」とあるので野辺送りに際して詠まれた歌になります。
白川というのは名はあなたが生きている時までの名であった、今は血の涙で赤く染まっています。白と赤のコントラストが強烈な哀傷歌、詠み人は素性法師です。ちなみに血の涙という誇張表現は漢詩に由来します。
堀河の前太政大臣身まかりにける時に、深草の山にをさめてけるのちによみける
832「深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染に咲け」(上野岑雄)
こちらの歌の前太政大臣は良房の子基経です。詞書の「をさめる」とは暗に埋葬を言っています。
深草の野辺の桜よもしおまえに心があれば、今年ばかりは墨色に咲け! お分かりとは思いますが墨染とは喪服の色のことです。純白の桜に墨色の哀悼を求める、なかなかの詠みぶりです。
紀友則が身罷りにける時よめる
838「明日知らぬわが身と思へど暮れぬ間の今日は人こそかなしかりけれ」(紀貫之)
詞書のとおり、古今集選者の一人である友則を悼んで詠んだ貫之の哀傷歌です。この歌が古今集に採られているということは、友則は初代勅撰和歌集の完成を見ることなく亡くなってしまったということです。
明日さえ分からないわが身ではあるが、あの人は今日が暮れる前に逝ってしまった。その悲しみはいかばかりか、友則と貫之は歴史的事業のチームメンバーであるとともに従兄弟でもあったのです。
喪中の歌
諒闇の年池のほとりの花を見てよめる
845「水の面にしづく花の色さやかにも君か御影の思ほゆるかな」(篁)
水面に沈んでいる花がはっきり見えるように、あなたの面影があざやかに見える。
詞書の「諒闇」とは天皇または国が喪に服すことを意味します。現代でも「喪」の文化は色濃く残っていますが、そのはじまりは死を穢れと考えるようになった平安時代以降だと言われます。
深草の帝の御時に蔵人頭にて夜昼なれつかうまつりけるを諒闇になりにけれは、さらに世にもまじらずして比叡の山に登りて頭おろしてけり(略)
847「みな人は花の衣になりぬなり苔のたもとよ乾きだにせよ」(僧正遍昭)
この詞書と歌はひとつの物語をなしています。深草の帝とは仁明天皇、詠み人の遍照は在俗中に仁明天皇の蔵人頭として夜昼にわたり親しくお仕えしておりました。やがて天皇が亡くなると遍照は一週間としないうちに比叡の山に登りて頭をおろす、つまり世を捨てて出家したのです。
世間の人はみな花のような色の服に改めたそうだ。涙に濡れるわたしの苔の袂よ、せめて乾いてほしい。詞書そして歌からも、遍照が仁明天皇を深く敬愛していたことが痛いほど分かります。
在りし日の回想
あるじ身まかりにける人の家の梅花を見てよめる
851「色も香も昔の濃さににほへども植ゑけむ人の影ぞ恋しき」(紀貫之)
適訳するまでもないシンプルな歌、しかしどうでしょう、なにやら深い想いを感じませんか? 思い出してください、貫之のあの百人一首歌を!
42「人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける」
同じく古今集の春に採られたこの歌、両歌の詞書に登場する「あるじ」はきっと同じ人物のはずです。かつて心変わりを皮肉った梅の宿のあるじ、色香は今も変わらないけれど、その人はむなしくなって面影のみが偲ばれる。和歌ファンであれば涙一入の一首です。
河原左大臣の身まかりての後、かの家にまかりてありけるに塩竈といふ所のさまをつくれりけるを見てよめる
852「君まさで煙絶えに塩竈の浦さびしくも見えわたるかな」(紀貫之)
河原左大臣とは言わずもがな源融のことです。詞書にあるように自身の邸宅(河原院)に陸奥の景勝地塩竈さながらの庭を設えました。この河原院こそが源氏物語の出てくる光源氏のハーレム六条院のモデルとされています。
歌には主人を失った豪奢な邸宅の無常のはかなさが詠まれています。
番外編 自らの死に寄せる
861「つひにゆく道とはかねて聞きしかど昨日今日とは思はざりしを」(在原業平)
これまでご紹介した歌はいずれも他者への哀悼でしたが、哀傷歌の中には自身の死に寄せて詠んだ歌いわゆる辞世の句に近いものがあります。
いつかは自分も行くであろうと死出の道を、まさか昨日今日に行くことになろうとは。軽薄な歌も多い業平ですが、このような歌には感情を揺さぶられます。たとえ多く人の死に接したとしてもそれはある意味どこまでも他人ごと、ついぞ自分の身に降りかかろうなんて考えないものです。臨終のきわ、業平の歌のように昨日今日に迫ってやっと身に沁みるものなのでしょう。ちなみにこの歌、伊勢物語には最終百二十五段に載ります。
さて、このように古今集の哀傷歌を鑑賞してみてある感情を抱きませんか? それは人の死に際して心からの哀悼を捧げているのか、という根本的な疑問です。
中唐の詩人白楽天、彼が娘の死に際し詠んだ詩(「病中哭金鑾子」)の一聯をご覧ください。
「慈涙隨声迸 悲傷遇物牽」
涙は声ともにほとばしり、はらわたは悲しみで千切れそうだ
(病中哭金鑾子 白楽天)
また万葉歌人の代表、柿本人麻呂は妻の死に際し、
「すべをなみ妹が名呼びて袖ぞ振りつる」
どうしようもなく、ただ妻の名を呼び求めてひたすら袖を振り続けた
(妻死みまかりし後泣血哀慟して作る歌二首 柿本人麻呂)
と、その詩歌から痛いほどの慟哭が伝わります。それらと比較したとき、花影を離さない古今集歌人の哀傷歌はなんだか白々しく軽薄さまで感じてしまいませんか?
これはひとつに「穢れ」の観念があるのでしょう。平安時代には仏教思想が定着し、死は穢れであるという観念があたり前になりました。飛鳥奈良時代の歌を載せる万葉集では雑、相聞に次ぐ一大ジャンルをなした挽歌(哀傷歌)が、古今集およびそれ以後の勅撰集において存在感を乏しくしていくのもその一因と考えます。相まって万葉集では詞書にも直接的に叙述された「死」という言葉も、古今集以後は敬遠されて極めて婉曲に表現されています、例えば「身罷る」、「隠る」、「消ゆ」、「失す」といった言葉です。
そもそも勅撰集自体が「ハレ」の歌集であり、平安以降の和歌において哀傷歌はまさに口に出して「歌いづらい」ジャンルになっていたのです。
さらに冒頭で申し上げたように、古今集をはじめとする勅撰集は「美学」によって編纂されています。「時間的推移」はその手段であり、目的は美そのものの再現にあるのです。
古今集が求めた美がなんであったか、それはまたの機会にご説明しますが、古今集における哀傷歌とはこのように「穢れ」と「美学」のせめぎ合いによってギリギリのバランスで成り立たせた賜物であったのです。
(書き手:和歌DJうっちー)
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