和歌の入門教室 「本歌取り」

先般、2020年東京オリンピック公式エンブレムのパクり騒動なんてのが世間を騒がせましたが、和歌の世界では「パクり」にも似た行為が横行してることをご存知でしょうか? そう、それが本歌取りです。

本歌取りとは有名な古歌(本歌)の一部を意識的に取り入れ、さらにそのうえに新たな趣向をくわえてあたかも自分の手柄とするような技法です。一見するとたんなるパクリのようですが学問的にはきちんとした技法ということで、本歌取りには二つの特徴があるとされます。ひとつが「本歌に対して同一・類似表現がある」そしてもうひとつが「本歌に対して対比表現がある」です。歌例で解説しましょう。

「み吉野の山の秋風さ夜ふけてふるさと寒く衣打つなり」(参議雅経)

百人一首にも採られた有名な歌ですが、この歌の本歌がこちら、

「(み吉野の)山の白雪つもるらし(ふるさと寒く)なりまさるなり」(古今集・坂上是則)

「み吉野」と「ふるさと寒く」がおなじですよね、つまりこれらが「同一・類似表現」なのですが、しかし、和歌とは従来「語彙」が非常に少ない文学なので、なおかつ同じような主題ばかりを詠むのですから、歌があまた詠まれれれば、そりゃあ同じような語句が生まれて当然ではないでしょうか。
それでも、「み吉野」と「ふるさと寒く」とくれば、やはり雅経ら新古今時代の歌人は古今集の是則の歌を思い描き、本歌から得られる共通の情景を企んで歌を詠みました。このようなことは歌文化の成熟なしに起こりえなかったでしょうし、また一方で歌はいよいよ行き詰っていたのだと思います。

「対比表現」の方は「白雪」を「秋風」にしたところですね、これによって雅経の歌には歌に描かれていない雪山の寒さを感じることができるはずです。このように情景や心情を二重映しにし、より奥深い情趣を表現することが本歌取りの目的なのです。

しかしこの前提として、詠み人だけでなく歌を歌を鑑賞する側も本歌を「知っている」必要があります。そういう点で、「知られてはまずい」現代のパクリと一線を画します。

では当時の歌人が本歌取りをどのように考えていたのか、定家の歌論を覗いてみましょう。

「あまりにかすかに取りて、その歌にて詠めるよとも見えざらむような取り方は、何の詮か侍るべきなれば、宜しくこれらは心得るべきにこそ」(「毎月抄」藤原定家)

このように本歌はそれとな~く詠むのでなく、明確に示すべきと言っています。
他には…

「五七の句は、やうによりて去るべきにや侍らむ。『いその神ふるきみやこ』『ほととぎす鳴くや五月』『ひさかたのあまのかぐ山』『たまぼこのみちゆき人』など申すことは、いくたびもこれを詠までは歌出で来べからず」(「近代秀歌」藤原定家)

と、言っています。これはまあ当然というか、例にあげているのがいずれも「枕詞」を含む語句なので、おのずと五・七分をけることは難しいでしょう。その一方で…

「『年の内に春はきにけり』『袖ひぢてむすびし水』『月やあらぬ春やむかしの』『桜ちる木のした風』などは、詠むべからずとぞ教へ侍りし」(「近代秀歌」藤原定家)

と記しており、このような歴史的名歌の“ど定番 ” の文句は露骨に使うことを禁じています、本歌の匂いが強すぎるんでしょうね。とはいえ、こんな歌もあったりします。

「桜さく遠山鳥のしだり尾のながながし日もあかぬいろかな」(後鳥羽院)
帝王のみに許された横暴! 本歌は… あえて載せるまでもないでしょう。

こちらは重要な一説です、本歌取りの実践的な詠み方が記されています。

「本歌取り侍るやうは、さきにも記し申し候ひし花の歌をやがて花に詠み、月の歌をやがて月にて詠む事は、達者のわざなるべし。春の歌をば秋・冬などに詠みかえ、恋の歌をば雑や季の歌などにて、しかもその歌を取れるよと、聞き手に聞ゆるやうに詠みなすべきにて候。本歌の詞をあまりに多く取る事は、あるまじきにて候。そのやうは、詮(せん)と覚ゆる詞、二つばかりにて、今の歌の上下句に分かち置くべきにや。たとへば、

「夕ぐれは雲のはたてにものぞ思ふ天つ空なる人を恋ふとて」(古今集恋、よみ人知らず)

と侍る歌を取らば、「雲のはたて」と「もの思ふ」といふ詞を取りて、上下句に置きて、恋の歌ならざらむ雑・季などに詠むべし」(「毎月抄」 藤原定家)

なるほど、とうなずける御大の金言ですね。たしかに定家は例にあげた歌を夏の歌に詠みかえたような歌があります。

「夕ぐれはいづれの雲のなごりとて花たちばなに風の吹くらむ」(藤原定家)

この歌に妖艶な恋の匂いがするのは本歌取りの効果でしょう。しかし先に本歌取りの技法で説明した「本歌に対して対比表現がある」歌は、あんがい少ないというのが私の感想です。もろもろの歌集の解説で紹介される本歌も、見ればほとんどが類似の古歌であることからもわかるでしょう。

それでもやはりパクリでないと言い切れるのは、先に述べたように「パクリ元が共通理解されている」という前提と、「古歌に対するオマージュ」を発端としていることに同じく和歌を愛する後世の人間ならば共感できるからです。

最後に、定家による本歌取りの妙技をご紹介しましょう。

「春の夜の夢の浮橋とだえして峰にわかるる横雲の空」(藤原定家)

こちらの本歌は、
「風ふけば(峰にわかるる)白雲のたえてつれなき君か心か」(壬生忠峯)

また百人一首にも採られた下も十分意識されているでしょう。
「(春の夜の夢)ばかりなる手枕にかひなく立たむ名こそ惜しけれ」(周防内侍)

それだけでなく「夢の浮橋」は源氏物語の最終帖のタイトルを丸パクリしています。つまりパクリだけで構成されたキングオプパクり歌なのですが、鑑賞者をうならせる名歌であることはゆるぎない。なぜか? それは定家の構成力が抜群だからです。本歌には「たえてつれなき」などと心情が入っていますが、定家の歌には感情がいっさいありません。それでも歌に冷々たる虚しさを感じるのは、本歌が持っている本意のみを抽出して、通常では描き切れない複雑な情景として再構築しているからです。新古今の複雑さと美しさはこんなことから出来上がっているのです。

定家にはこんな歌もあります。

「桜色の庭の春風あともなし問はばぞ人の雪とだに見む」(藤原定家)

じつのところこの本歌は古今集と伊勢物語に載る、

「今日こずは明日は雪とぞ降りなまし消えずはありとも花と見ましや」(在原業平)

なのですが、詞をパクるのではなく“シチュエーション ” をパクって、新しい歌として再構築しています。定家は本歌取りの名手といわれますが、この歌の構成力がずば抜けていたということなのです。

(書き手:和歌DJうっちー)

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