和歌とは? 「美を志向する、大和の音楽(みんなで仲むつまじく)」である

和歌とは何か? このざっくりとした質問に、ざっくりとお答えいたしましょう。

実のところ「和歌」は、このネーミングに主旨が端的に言い表されています。「和」は「やまと(大和・日本)」です。本来的には「歌」でよかったところを、わざわざ「和歌」としたのは、大陸の歌「からうた(唐歌)」と区別しこれに対抗しようとする意志から生じたものです。
※和歌は詞の上でも「唐」すなわち漢語を徹底的に排除しています


次の「歌」については説明不要かもしれませんが、じつはそう単純でもありません。なにせいわゆる「現代短歌」は、「歌」という字はあれど、口語体で破調も気にしない(むしろ望むところ)文芸ですから、発声して表現することはほとんど想定していません。ですから「和歌」とは、「大和(心・詞)による音楽(発声による文芸)」ということになります。

和歌というと「三十一文字(みそあまりひともじ)」が定型だと思われがちですが、これが一般化する以前には、例えば奈良時代に編まれた日本最古の歌集「万葉集」には「五・七」の繰り返しいかんで「長歌」、「旋頭歌」といった異なる形式の和歌も存在しました(後世には「俳句」や「都々逸」といった形式も生まれます)。それが平安時代の初代勅撰和歌集「古今和歌集」の頃には短歌形式が圧倒的主流となり、今私たちが目にする「三十一文字」に定型化されたのです。

ちなみに「五・七」の音節を好んだのは日本人だけではありません。中国の詩(漢詩)もその主流は五言・七言の絶句や律詩なのです。おそらく音節が奇数であることによって句に絶妙なリズムが得られるのでしょう、和歌も漢詩もとりもなおさず朗詠によって発展していったのです。

ここで少し漢詩に触れましたが、和歌は漢詩と比較することでその特徴が際立ってきます。実のところ和歌と漢詩は違うところだらけです。和歌は韻文でありながら韻(ライム)を踏みません、極端にいえば五・七・五・七・七の三十一文字に収まってさえいれば歌であるのです。しかし漢詩は違います、偶数句の末字で必ず韻を踏みますし、平仄も整えなければなりません、この違いをどう考えるか?

和歌に規律が少ないのは、誰でも詠めるということが根本にあったからだと思います。漢詩(唐詩)人の主役は科挙試験に及第した博識の文人たちがほとんど、精緻を極めた詩文で自らを主張したのです。一方の和歌、万葉集をみればわかりますが天皇から果ては乞食まであらゆる人間が歌を詠んでいます。つまり和歌とは、折々の遊宴などに際してみんなで即興的に詠み歌い楽しむものだったのです。わたしはここに「和」に「仲むつまじくする」という意味を加えてもいいんじゃないかと思います。

あいにく平安時代の主な歌集には宮廷貴族の歌しか残っていませんが、それらをみても天皇から下級官人まで男女へだてなく歌を詠み、宮廷の慶弔から歌合せそして恋のひめごとまで、公私を問わずコミュニケーションの主流をなしていたことがわかります。漢詩(唐詩)についていえば女性詩人はほとんど名が残っていませんから、和歌とは紀貫之が記したとおり万人にとっての文芸であったのです。

花に鳴くうぐひす、水に住むかはづの声を聞けば
生きとし生けるものいづれか歌をよまざりける
(古今和歌集 仮名序)

さて、和歌に規律が少ないとはいえ、しだいに和歌は和歌たらしめる修辞というものが発展していきました、掛詞や縁語、序詞といった技法です。平安も中ごろにもなると「歌病(かへい)」という禁制表現や「本歌・本説取り」という古典教養を前提に歌を作るようになり、和歌は次第に高い知性を要求する文学へと成りあがっていきました。ここでようやく和歌は漢詩に引けを取らない教養となったのです。時の貴族はこれに腐心し、己の人生を掛けて歌を詠みました。この結実が、鎌倉時代初期に編まれた「新古今和歌集」だといえるでしょう。

「新古今和歌集」は、後鳥羽院の勅命によって編纂された八代目の勅撰和歌集です。代表的な撰者に藤原定家がおり、もっとも歌を多くとられた歌人は西行です。このように、新古今は今でも名を轟かす著名な歌人で溢れていますが、じつのこの平安末期から鎌倉初頭にかけては文芸・思想のシンクロニシティという時代でした。先の後鳥羽院はじめ式子内親王、貴族では藤原良経、俊成、定家、家隆、鴨長明また坊主には慈円、寂連そして西行がいます。武家の源実朝も忘れてはいけませんね。

※実は同じ時期に法然やその弟子親鸞といった、いわゆる鎌倉新仏教という現代の仏教教団の宗祖という人物も同時多発的に活躍しました。慈円の兄兼実は法然に帰依していますし、その法然そして親鸞を都から追放したのは後鳥羽院です。彼ら仏門の徒も含んだのが平安末期から鎌倉初頭の文芸・思想のシンクロニシティであり、これは時代が末法の現実たらしめたことが要因だといえます

これほどの詠み人が目指した「和歌」とはなんだったのか、それはそれは端的に「美」です。
話を漢詩との対比に戻しますが、中唐の詩人白居易は詩を分類して「諷諭、閑適、感傷、雑律」の四つとし、自らは諷諭と閑適に魂を賭けました。諷諭は政治批判、閑適は思想信条を表明した詩ですから白居易の「士大夫」たる精神がよくわかります。一方の本朝歌人、歴々の勅撰和歌集を見えれば分かりますが諷諭の歌なんてのは皆無、時代を上っても士大夫と呼べる歌人は万葉時代の山上憶良ただ一人でしょう。なんでこんなことになったのか? それは日本の歌人たちが歌を「美」すなわち心の底から沸き起こる情趣、「あはれ」の表現手段であると考えていたからです。平安歌人らは四季や恋はもちろん離別や哀傷歌でさえ、移ろう自然に身を重ね嘆息を紡いできたのです。

※白居易はかの「和漢朗詠集」において唐詩人の六割を占めるほど平安歌人らに親しまれましたが、その精神の本質についてはほとんど顧みられることがなかったのです

和歌の美(あはれ)の本性とは、つまるところ「恋ふ」の感情です。求めても決して得られない虚しき希求心こそがその源泉なのです。
新古今和歌集の洗練された和歌を見てみてください。和歌という形式が三十一文字に絞り込まれたのは文芸における表現を美に厳選したためだと思わせてくれる、そんな芸術性の高い作品が幾首も詠まれています。それは「滅びの美」、無情なる世に虚しく留めた爪痕。ボードレールやマラルメに先んじて到達した日本文芸の極みでありました。

「春の夜の夢の浮橋とだえして峰にわかるる横雲の空」(藤原定家)

いかがでしょう、「和歌」とはつまり「美を志向する、大和の音楽(みんなで仲むつまじく)」なのです。

ところで最後に、「歌」=「音楽」だとすることに少々無理がないか、ということにお答えしましょう。
確かに古代の「和歌」は口唱により伝承され、宮中でも捧げられてきました。しかしこれが文字の発達と歩調を合わせ「書く文芸」として発展していったことも事実です。「高野切」や「寸松庵色紙」など、和歌を美しく書き表そうとという芸術活動も盛んにありました。しかし、やはり和歌の基本は「歌」=「音楽」です。和歌史においてはじめて古典主義を打ち出した藤原俊成は、その理想を初代勅撰和歌集「古今和歌集」に求め、良い歌とは「声に出して朗詠した時に、艶にもあはれにも感じられるものだ」と記しました。

歌のよきことをいはんとては(略)、通俊卿の後拾遺の序には「ことばは縫物のごとくに、心海よりも深し」など申したれども、必ずしも錦縫物のごとくならねども、歌はただよみあげもよし、詠じもしたるに、何となく艶にもあはれにも聞ゆる事のあるなるべし。もとより詠歌といひて、声につきて善くも悪しくも聞こゆるものなり。
(古来風体抄 上)

現代において「現代短歌」ではなく「和歌」を詠もうとする人は、「歌」=「音楽」であることを心に留め、「韻律(しらべ)」に命を吹き込んでください。

(書き手:歌僧 内田圓学)

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