「定家vsマラルメ」世紀を超えた対決! 象徴歌の魅力に迫る


「春の夜の夢の浮き橋途絶えして 峰に分かるる横雲の空」(藤原定家)

新古今和歌集にも採られた藤原定家を代表するこの歌、何とも言えない美しい情景がイメージされます。そう「何とも言えない」、これが定家歌の最大の特徴です。

「春の夜」とか「夢の浮橋」とか、なんだか儚さを感じるモヤモヤする言葉が並んでいて、それらが混じりあうことで現実を超越した美しい世界がイメージされる。本当に不思議な歌です。

ただ本来、和歌とは人の「心の表われ」であったはずです。古今和歌集の仮名序を思い出してください。

「やまと歌は 人の心を種として よろづの言の葉とぞなれりける。世の中にある人、ことわざしげきものなれば 心に思ふことを見るもの聞くものにつけて言ひいだせるなり」
古今和歌集(仮名序)

世の中の人は関わり合う事柄が多いため、自然と心に思うことも多くなる。その心・感情を、見るもの聞くものに託して言い出したのが和歌である、と。
→関連記事「貫之様にインタビューしてみた ~古今和歌集 仮名序妄訳~

しかし定家の「春の夜」の歌には、「人の心」らしきものが見当たりません。
つまり、伝統的な和歌の枠組みをはみ出した歌だと言えるのです。

定家のこの“新しいスタイル”の歌は「新儀非拠達磨歌」と評されました。本人いわく「文治・建久年間以来、新儀非拠達磨歌と称して、天下・貴賤のための既に棄て置かれんと欲す」です。

この「新儀非拠達磨歌」とは“新しくて前例のない訳のわからない歌”といった意味です。当時の歌人たちにとって、到底受け入れられたものではなかったんでしょうね。ただこの達磨歌、ある人の目に留まり大ブレイクします。後鳥羽院です。

→関連記事「後鳥羽院 ~お前のものは俺のもの、中世のジャイアン~

院は定家が初めて詠進した「正治初度百首」の達磨歌に瞬く間に魅了されてしまいます。結果、出世に悩んでいた定家は一気に昇殿を許され、院の歌壇の代表そして新古今和歌集の選者となります。後鳥羽院が命じた「新古今和歌集」は、この達磨歌の魅力でいっぱいです。

さてこの達磨歌、“新しくて訳わからんもの”と説明しましたが、実はもっとそれらしい言い方があります、それが「象徴歌(象徴主義の歌)」です。

「象徴」を辞書で引くと、「抽象的な概念を、具体的な事物や形によって表現すること」といった解説がなされています。ただ和歌自体が「心に思ふことを見るもの聞くものにつけて言ひいだせるなり」ですから、本来全てが象徴的なものです。

「象徴主義(サンボリスム)」というと思想的な意味合いが加わり、「詩語の音楽性を重視し、語音の響きによって内的生命や特別の観念を象徴させる運動」と記されています。モレアスという詩人が定義したと言われます。

この象徴主義は19世紀後半、フランスで誕生しました。象徴主義の代表的な詩人と言えば「ボードレール」「ランボー」「ヴェルレーヌ」らの名前が挙げられますが、その代表格はなんといっても「マラルメ」です。

12世紀の定家と、19世紀のマラルメ。今回はこの歌合をして「象徴歌」の魅力に迫ってみたいと思います!

まずは先攻、(左)ステファヌ・マラルメ。

月魂(つきしろ)は悲しかりけり。織天使は涙に濡れて、
指に楽号(ゆみ)、朧にけぶる花々の静寂の中を
夢みつつ、花びらの蒼空の上を渡りゆく
真白き啼泣 音も絶え絶えの胡琴(たてごと)に ゆし按じたり。

ーこの日こそ、君が初穂の接吻に祝福されし日。

わが身を贄に献げたる苦行を好む冥想は、
夢の果貴(このみ)の牧穫(とりいれ)の、夢を摘みたる魂に、
恨もあらず悔もなく、残す悲哀の芳香に、
賢しく酔ひて、酔ひ痺(し)れゐたり。
されば、年経る石路に 眼を伏せて行き迷ひ
迷ひて行けば、タ闇に 街の真中(さなか)に微笑みて、
たわわの髪も燦々と、あらわれ出でし この君に、
人に矯(あま)えし少年の美(は)しき夢路に その昔
光の冠をいただきて、掌 緩かに握りたる
御手より零(こぼ)るる 香も高き星の素白(ましろ)き花束の
雪降らしつつ過ぎ行きし 妖女を見しと、われは思ひぬ。

「あらはれ」マラルメ詩集(訳:鈴木信太郎)

続いて後攻、(右)藤原定家!
※文字数にハンデあり、のため秀歌10首掲載

「霜惑う空にしおれし雁が音の 帰る翼に春雨ぞ降る」
「返り見る雲より下の故郷に 霞む梢は春の若草」
「梅の花匂ひをうつす袖の上に 軒もる月の影ぞあらそふ」
「夕暮れはいずれの雲の名残とて 花橘に風の吹くらむ」
「うちなびく茂みかもとのゆりのはの 知られぬほどに通う秋風」
「見渡せば花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮れ」
「さむしろや待夜の秋の風ふけて 月をかたしく宇治の橋姫」
「芦鴨の寄る辺の汀氷柱いて 浮き寝を写す沖の月影」
「白妙の袖の別れに露おちて 身に染む色の秋風ぞ吹く」
「かきやりしその黒髪のすぢごとに うつふすほどは面影ぞたつ」
藤原定家

判云、いずれも甲乙つけ難く今回の判定は「持」といたします!!

定家、マラルメが描くこの「幻想的な世界」、あなたも酔いしれてしまったのではないでしょうか? そして同時に、幻想を生む「言葉の力」に感嘆も覚えたはず。そう、「象徴歌」とは言葉に言葉を重ね、言葉だけで成り立っている世界。俗な現実を全く拒否した結果、美辞麗句、お花畑、中二病のようなおめでたさの極致なのです。こんなもの、現実に身を置く人間には馬鹿げた冗談にしか聞こえませんね、きっと。

つまり象徴歌とは「言葉の麻薬」、鑑賞者をいとも簡単に陶酔させることもできれば、荒唐無稽でくだらないと一蹴される恐れものでもあるのです。

実は定家も、象徴歌のくだらなさを十分理解していました。だから定家は多用したのです、「本歌取り」を。
→関連記事「和歌の入門教室 本歌取り

本歌取り、つまりくだらない歌の根拠を皆が認める偉大な古典の「権威」に求める。そうすることで、それを理解できない方が愚かである。そういうことにしたのです。

「夢の浮橋途絶えして」で感じるものがあるだろ?
そう迫ったのです、定家は。ほとほと天才ですね。

象徴歌は美しい顔をしていて、その価値を鑑賞者の方に乱暴にブン投げている、そう考えた方がよさそうです。だからでしょうか? 美しいはずの象徴歌なんてジャンルの和歌はほとんど人気がない、というかまず知られてもいない。
まあ当の定家だって、後鳥羽院との関係が遠のくにつれて達磨ブームはなかったのように平明な歌ばかり詠むようになるんですから、なんとももどかしい感じす。

ただ私は好きですよ、定家の象徴いや達磨歌!これほど洗練された言葉による芸術が、12世紀の日本にあったと思うだけでも感激しますし、そんなことに関係なく、何とも言えない美しさを感じてしまうのです。

→関連記事「藤原定家 ~怒れる天才サラリーマン~
→関連記事「和歌の鑑賞ポイント(上級編)〜新古今和歌集、見えないものを見る〜
→関連記事「新古今歌とはシュルレアリスムであった
→関連記事「絶望との対峙方法 ~新古今和歌集とフィッシュマンズ~

(書き手:和歌DJうっちー)