十七番「ちはやふる神代も聞かず竜田川からくれなゐに水くくるとは」(在原業平朝臣)
在原業平は行平の弟、色好みで知られ… などとやりだすときりがないのでここでは百人一首歌に絞って話をさせてもらう。
凡作撰百人一首において、定家の審美眼が疑われる代表がこの「ちはやふる」ではないだろうか。ちまたでは「業平らしい奇抜でスケールの大きい歌」などと無理して褒めるが、どう考えてもつまらない歌だ。むしろ業平詠でなければそのような評もできようが、業平だからこそ期待を大きく損なっているといえる。
私たちが業平に望むもの、それはもちろん「情交」だ。伊勢物語にみた奔放で恐れ知らず、美女とみればかまわず手を出してしまう熱情の男だ。上手くも行けば失敗もする、けれどもそれがいい。本能むきだしのダメ男に古今東西多くの人間が憧れ、夢をみた。「源氏物語」に「琳派」の種々作品、「好色一代男」、これらは業平に魅せられた人々の時代時代のリスペクトだ。
それがこの「ちはやふる」には微塵も感じられない、なんと口惜しいことか。そんなことだから先の行平の一首のようにすぐれたインスピレーション作品(謡曲「松風」)も生まれず、あるのは落語「千早振る」の爆笑くらい。
定家は「ちはやふる」のどこに業平を見たのか? 強いて探れば詞書きにヒントがあろう。古今集にはこうある、「二条の后の春宮の御息所と申しける時に御屏風に竜田川に紅葉流たるかたをかけりけるを題にて詠める」。二条の后とは藤原高子、そう伊勢物語で大恋愛を繰り広げたあの高子だ。業平は決して手を出してはならない女に手を出し、結果東に落ちるはめになった。むべなるかな、高子は清和天皇妃となる女性だったのだから。
しかしそんな日々もいつかは思い出に、高子は清和の東宮(貞明親王)を生み御息所(母)となっていた。つまり「ちはやふる」は年齢も立場も変わってしまった業平と高子が、再び相対した場面で詠まれたものであったのだ。
過去の熱情などなかったかのように屏風の絵空を眺める二人。 恋の顛末、後日談というべきか、 そのように思いを馳せれば愚作もわずかに輝いてこよう。
(書き手:内田圓学)
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