【百人一首の物語】三十一番「朝ぼらけ有明の月とみるまでに吉野の里にふれる白雪」(坂上是則)

三十一番「朝ぼらけ有明の月とみるまでに吉野の里にふれる白雪」(坂上是則)

三十一番は坂上是則、その名でわかるとおりかの征夷大将軍「坂上田村麻呂」の子孫にあたります。田村麻呂とえば平安時代初期の蝦夷征討において多大な功績を残し、還都を呼びかけ京を脱した平城上皇らをくい止めるなど、武勇でならした大人物。位は正三位大納言にまで昇り、清水寺の建立にも関与するなど歴史的な偉人でありました。

ですが、子孫たる是則はぱっとしません。それがなによりわかるのが名前です、貴族社会では名前に冠がつけばつくほど、基本的に偉い人でした。たとえば九十一番の藤原良経をごらんください、「後京極摂政前太政大臣」なんてことになっています。それが是則はただの「坂上是則」です、朝臣(あそん)さえもないただの呼び捨てです。
百人一首をみわたすと二十九番の凡河内躬恒から三十七番の文屋朝康まで九名の男性歌人が続きますが、かれらはひとしく呼び捨ての歌人、つまり下級官人でありました。かれらが活躍した古今集成立の頃、すでに宮廷の権力は藤原氏もろもろで固まりつつあり、ほかの氏族らはほとんど落ちぶれてしまっていたのです。紀貫之も歴史的には偉大な歌人、文学者として名を残してはいますが、それもかつての紀氏の栄光からみれば本意でなかったのかもしれませんね。しかもかろうじて確保したこの文人のフィールドさえ、このさき落ちぶれた藤原氏が進出してくるのですから、目も当てられません。

さて是則の歌ですが、三十番の忠岑と同じく「有明月」が歌われています。しかし詠み方は違ってここで月は風景のひとつ、恋の匂いは皆無です。おもしろいのは「吉野の里の降雪を有明月と見まがえた」という趣向、わたしたちは月の光をひとつの光源のように捉えていますが、昔の人は四方を包む明かりと見ていたのですね。始終ギラギラのネオンに囲まれ、月のありがたみをなくした私たちにはけっして理解できない冬の情景です。

(書き手:歌僧 内田圓学)

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