三猿の詠草

8
5
令和六年一月
初逢恋
目覚むればそよとながるる風だにもけふ逢う君のこへぞきこゆる
三猿
目が覚めると「そよ」風にさえも、今日あう君の声が聞こえる。心が募って風音にさえ恋人の声が聞こえる、夢交じりの人の歌。「目覚めれば」、「今日逢ふ君」とあり段階がはっきりしない。初遇恋をはっきりさせれば、「恋わたるわがみにそへる風なれやそよとうちとく声ぞきこゆる」

56
5
令和五年十二月
不遇恋
片糸のあふもあはむもふくかぜのゆくへさだめぬ君がまにまに
三猿
片糸がよりあうのもあわないのも吹く風によって定めが分からないように、片思いする私が逢うのも逢えないのも、あなた次第である。糸は本来より合わせて使う、これを片思いに掛けて不安定な恋歌に見事仕立てた。「ゆくへさだめぬ」に「吹く風」と「君しだい」の両方が掛かっているが別々にしたい、すなわち上の句を序詞として明確にする「吹く風にゆくへも知れぬ片糸のあふもあはむも君がまにまに」

「片糸のあふもあはむもふくかぜのゆくへさだめぬ君がまにまに」

判者評:片糸がよりあうのもあわないのも吹く風によって定めが分からないように、片思いする私が逢うのも逢えないのも、あなた次第である。糸は本来より合わせて使う、これを片思いに掛けて不安定な恋歌に見事仕立てた。「ゆくへさだめぬ」に「吹く風」と「君しだい」の両方が掛かっているが別々にしたい、すなわち上の句を序詞として明確にする「吹く風にゆくへも知れぬ片糸のあふもあはむも君がまにまに」

97
5
令和五年十一月
忍恋
葦垣のまぢかきゆえのとほまわりうちにとどめんもとのこころは
三猿
間近いゆえに遠回りする。こころに留めておこう、心にある本心は。「葦垣の」は「間ぢかし」の枕詞。忍ぶ恋の理由が詠まれた稀な歌、ここではおそらく近親者への禁断の恋が詠まれ、感情的である。ゆえにこの恋の先が気になる…

「葦垣のまぢかきゆえのとほまわりうちにとどめんもとのこころは」

判者評:間近いゆえに遠回りする。こころに留めておこう、心にある本心は。「葦垣の」は「間ぢかし」の枕詞。忍ぶ恋の理由が詠まれた稀な歌、ここではおそらく近親者への禁断の恋が詠まれ、感情的である。ゆえにこの恋の先が気になる…

169
5
令和五年十月
初恋
なにとなく落つる涙の初しぐれ行方さだめぬこひの埋火
三猿
なんとなしに涙は初時雨のよう、行方の定かならない恋の埋火であることよ。「初時雨」、「埋火」と晩秋~冬にかけての物寂しい言葉で構成されているが、一首の筋が通っていないように思う、どちらかに集中してたとえば「なにとなくおつる涙の初時雨降らせる雲はいづじゆくらむ」。

「なにとなく落つる涙の初しぐれ行方さだめぬこひの埋火」

判者評:なんとなしに涙は初時雨のよう、行方の定かならない恋の埋火であることよ。「初時雨」、「埋火」と晩秋~冬にかけての物寂しい言葉で構成されているが、一首の筋が通っていないように思う、どちらかに集中してたとえば「なにとなくおつる涙の初時雨降らせる雲はいづじゆくらむ」。

201
5
令和五年九月
待恋
ちぎりおきしとどまる露はひとしずく浅茅が宿に待つぞはかなき
三猿

220
5
令和五年九月
秋の夜のなぐさめとばかり見る月はなほうらめしきここちこそすれ
三猿

「秋の夜のなぐさめとばかり見る月はなほうらめしきここちこそすれ」

判者評:

231
5
令和五年八月
さりげなく露のおかるる萩の葉にあはれ添へたる立ち待ちの月
三猿
何気なく露が置かれた萩の葉に、あはれを添えている立待ち月よ。萩の葉においた露に、立ち待ちの月が宿っているという抜群の趣向。見事であるが、初秋というより仲秋にふさわしい景(立待ち月は特に8月17日の月を指す)。初句「さりげなく」を「いつとなく」に変えてみてはどうだろうか(月を待っていたらいつの間にかという風流)。

「さりげなく露のおかるる萩の葉にあはれ添へたる立ち待ちの月」

判者評:何気なく露が置かれた萩の葉に、あはれを添えている立待ち月よ。萩の葉においた露に、立ち待ちの月が宿っているという抜群の趣向。見事であるが、初秋というより仲秋にふさわしい景(立待ち月は特に8月17日の月を指す)。初句「さりげなく」を「いつとなく」に変えてみてはどうだろうか(月を待っていたらいつの間にかという風流)。

264
5
令和五年七月
夏越祓
石上布留の社の朝影に茅の輪くぐりて鶏のなく
三猿
布留社は奈良県天理市の石上神宮、その朝影に茅の輪をくぐったら鶏がないた。実感のこもった、夏越しの風景である。三句目の「朝影に」が浮いている、例えば「布留の社に朝陽さし茅の輪くぐれば鶏ぞなく」

「石上布留の社の朝影に茅の輪くぐりて鶏のなく」

判者評:布留社は奈良県天理市の石上神宮、その朝影に茅の輪をくぐったら鶏がないた。実感のこもった、夏越しの風景である。三句目の「朝影に」が浮いている、例えば「布留の社に朝陽さし茅の輪くぐれば鶏ぞなく」

288
5
令和五年六月
雑夏
うちなびく軒端にかかるしの簾風にときめく夏の夕暮れ
三猿
軒に吊るしたしの簾が風になびいて、ああいい風が吹いているなぁ、夏の夕暮れよ。夏の風を詠み、それを簾の動きでとらえた見事な歌である。初句「うちなびく」では風が少々強い感じがする、また四句目「風にときめく」が現代的でもったいない。よって「音もなく揺れる軒端のしの簾風ぞゆかしき夏の夕暮れ」など。

324
5
令和五年五月
戻り鶯
閑かなる緑陰の道にこだまする季節はずれのうぐいすのこゑ
三猿
穏やかで気持ちのいい夏の日、そんな折に鳴くのが時鳥ではなく、「鶯」であった。いわば「返り花」ならぬ「返り鶯」の歌。和歌的四季感では、夏に鶯は完全に締め出されているが、現実は夏になっても鶯はよく鳴いている。あくまでも和歌的文脈においての俳諧歌だが面白い。「緑陰」の漢語は外すことができないだろうか、置き換え可能なら選ばない方を選びたい。また四句目の「季節外れの」が説明くさい。たとえば「緑葉の茂りに茂る夏山にふりにし声で鳴けるうぐひす」

「閑かなる緑陰の道にこだまする季節はずれのうぐいすのこゑ」

判者評:穏やかで気持ちのいい夏の日、そんな折に鳴くのが時鳥ではなく、「鶯」であった。いわば「返り花」ならぬ「返り鶯」の歌。和歌的四季感では、夏に鶯は完全に締め出されているが、現実は夏になっても鶯はよく鳴いている。あくまでも和歌的文脈においての俳諧歌だが面白い。「緑陰」の漢語は外すことができないだろうか、置き換え可能なら選ばない方を選びたい。また四句目の「季節外れの」が説明くさい。たとえば「緑葉の茂りに茂る夏山にふりにし声で鳴けるうぐひす」

342
5
令和五年四月
暮春
年ふれば桜見る目ものどかなりちりゆくままの春の暮かな
三猿
業平に「世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」があるが、これは若輩者の浮ついた心であって、老境に入るとこのように詠めるのである。本歌をもう少し強くしてみてはどうか「年ふれば春の心ものどかなり花散りはてぬ春の暮かな」

367
5
令和五年三月
うちなびくしだれ桜の枝間よりくまなき月の光こぼれり
三猿
こちらも「このまよりもりくる月の影見れば心づくしの秋はきにけり」を踏まえた春のバージョン。桜と月が取りあわされた美しい情景。ただ本歌のように、月明かりが漏れてくる必然性が弱い。たとえば、「散りそめししだれ桜の枝間よりくまなき月の光こぼれり」

387
5
令和五年二月
雪残る庭にただよふ梅の香はためらいがちの春をせかせり
三猿
春くれど、遅々として進まない季節に梅の香がせきたてるという趣向。「ためらいがち」「せかせり」という言葉は和歌らしくはないが、梅が擬人化され風雅の心がユーモラスに歌われている。

「雪残る庭にただよふ梅の香はためらいがちの春をせかせり」

判者評:春くれど、遅々として進まない季節に梅の香がせきたてるという趣向。「ためらいがち」「せかせり」という言葉は和歌らしくはないが、梅が擬人化され風雅の心がユーモラスに歌われている。

411
5
令和五年一月
晩冬
入相のひびきを残す奈良坂の雪間に浮かぶ金色の鴟尾
三猿
「奈良坂」平城山(ならやま)を越える坂道、別名「般若寺坂」と呼ばれるが、「入相のひびき」は般若寺のものだろうか。「鴟尾」(屋根の大棟の両端を飾るもの)を有するかはわからない。実景であろうか? いずれにしてもある種の宗教的体験を感じさせる荘厳な一種である。

「入相のひびきを残す奈良坂の雪間に浮かぶ金色の鴟尾」

判者評:「奈良坂」平城山(ならやま)を越える坂道、別名「般若寺坂」と呼ばれるが、「入相のひびき」は般若寺のものだろうか。「鴟尾」(屋根の大棟の両端を飾るもの)を有するかはわからない。実景であろうか? いずれにしてもある種の宗教的体験を感じさせる荘厳な一種である。

430
5
令和四年十二月
枯れ蓮の舞台を映す佐紀沼に雪しづかなる音を奏でむ
三猿
「左紀沼」は奈良市の歌枕、万葉集には「かきつばた」や「おみなえし」が詠まれるが「蓮」は作者の風景だろう。枯れ蓮の上に音もなく降る雪を重ね、まさに作者いうところの蓮を「舞台」に見立てた歌。「雪しづかなる」の続け方が苦しい、シンプルに「雪はしずかに」なととすべきか。また結句は「奏でむ(意志、推量)」ではなく「奏でる」としてさらりと風景歌にしたい。

「枯れ蓮の舞台を映す佐紀沼に雪しづかなる音を奏でむ」

判者評:「左紀沼」は奈良市の歌枕、万葉集には「かきつばた」や「おみなえし」が詠まれるが「蓮」は作者の風景だろう。枯れ蓮の上に音もなく降る雪を重ね、まさに作者いうところの蓮を「舞台」に見立てた歌。「雪しづかなる」の続け方が苦しい、シンプルに「雪はしずかに」なととすべきか。また結句は「奏でむ(意志、推量)」ではなく「奏でる」としてさらりと風景歌にしたい。

446
5
令和四年十一月
初冬
吹きかかる紅葉をまとひ月影の今宵限りの秋化粧かな
三猿
「月に紅葉が吹きかかって秋化粧する」とはまことに見事な趣向。四句目「限りの」とすると「今夜最後の秋化粧」となり暮秋の歌になるので、「限りは」として「今夜のうちは秋化粧」(冬の中に見えた秋)としたい。「化粧」は音読みだが許される。

464
5
令和四年十月
晩秋
山紅葉葉ごとにむすぶ白露の色さりげなくうつる秋かな
三猿
「庭の面(おも)はまだ乾かぬに夕立の空さりげなく澄める月かな」(頼政)を踏まえたか。「紅葉の葉の上においた白露」の色と対比された「うつる秋」が想像されるが、これが歌からはなかなかわからない。であれば、紅葉と白露を対比させてはどうか。例えば…「奥山の色こく染まるもみじ葉に色さりげなく置ける露かな」

476
5
令和四年八月
初秋
かささぎの渡せる橋のたもとにてかはす声なき催涙雨かな
三猿

481
5
令和四年九月
仲秋
秋風のいつしかなりしつめたさにつもりし恋も萩とこぼれる
三猿
歌のねらいは「秋風がいつの間にか冷たくなり、私の恋も飽きられて、萩においた露がこぼれるように涙がこぼれる」ということだろうが、詞に過不足がありうまく伝わらない。「秋風」に「つめたい(冷淡)」の意味が含まれるし、「萩とこぼれる」では足りず「萩の露(涙)がこぼれる」とすべき。また「秋風」の時点で「恋」と言うまでもない。整えると…「秋風のやがてつめたくなりぬれば萩おく露のこぼれやむやは」

「秋風のいつしかなりしつめたさにつもりし恋も萩とこぼれる」

判者評:歌のねらいは「秋風がいつの間にか冷たくなり、私の恋も飽きられて、萩においた露がこぼれるように涙がこぼれる」ということだろうが、詞に過不足がありうまく伝わらない。「秋風」に「つめたい(冷淡)」の意味が含まれるし、「萩とこぼれる」では足りず「萩の露(涙)がこぼれる」とすべき。また「秋風」の時点で「恋」と言うまでもない。整えると…「秋風のやがてつめたくなりぬれば萩おく露のこぼれやむやは」

500
5
令和四年八月
初秋
咲きて散り咲きては散りぬ朝顔にあはれを添えて秋風ぞ吹く
三猿
次々に咲いては散る朝顔と秋風の取り合わせが美しい。「添えて」は「添へて」となる。上の句だが「咲きて散り、散りては咲きぬ」とした方が馴染みやすいのではないか。また秋風を擬人化するのであれば、推量表現にした方が歌が豊かになる。例えば…「あはれそふらむ秋の初風」など

510
5
令和四年七月
盛夏
とこしへの松の緑に見送られ明日は散りゆく紅の梅
三猿
常緑を讃える松と、むなしき梅の花が対照されている。「松の緑」とあるので「梅の紅」としたほうがいい。ところで松と比較するのであればどんな花でもいいが、あえて梅とした理由が気になる、新春の風景を描いたのか。また「今ぞ散りゆく」ではなく「明日は散りゆく」としたところも狙いがあるのだろうか。

511
5
令和四年七月
盛夏
夏座敷風鈴の音ささやけば揺らいで答ふたまだれの小簾
三猿
風鈴と小簾(こす)の会話。写生か想像か、いずれにしても風雅でユニークな一首。ただ「夏座敷」、「風鈴」、「たまだれ(玉垂れ=玉すだれ)」、「小簾(こす・すだれ)」と景物が雑然としている。たとえば『雨を呼ぶ風鈴の音ささやけばそよと答ふる軒のたまだれ』とすると、「雨が降るよ」と呼びかけたの対し、「そうだね」と答えたような物語が生まれる。

525
5
令和四年六月
春日杜並ぶ灯篭雨にぬれ苔の緑の深き夕暮れ
三猿
写真を切り取ったような、美しい日本の風景。ただ言いたいことが多く、散漫としてしまってもったいない。例えば…「雨の降る春日の杜の石灯籠苔の緑も色深かりき」

526
5
令和四年六月
雨音にふと気がつけばにはたづみ落とす涙もともに流れむ
三猿
『にはたづみ(雨が降ったりして、地上にたまり流れる水)』とは。「にはたづみ行く方知らぬもの思(も)ひに」。行くにかかる枕詞で、「落とす」にかかるのは枕詞ではなく、情景の一部になっている。これが涙とともに流れるという歌で、新作感がある。「ふと気がつけば」が少々説明くさい、なぜ涙を落としているのか、歌からは分からない。さらに「む(推量)」とした意図がわかりづらい。例えば…「ふりやまぬ雨は涙かにはたずみながるる水はますばかりにて」

「雨音にふと気がつけばにはたづみ落とす涙もともに流れむ」

判者評:『にはたづみ(雨が降ったりして、地上にたまり流れる水)』とは。「にはたづみ行く方知らぬもの思(も)ひに」。行くにかかる枕詞で、「落とす」にかかるのは枕詞ではなく、情景の一部になっている。これが涙とともに流れるという歌で、新作感がある。「ふと気がつけば」が少々説明くさい、なぜ涙を落としているのか、歌からは分からない。さらに「む(推量)」とした意図がわかりづらい。例えば…「ふりやまぬ雨は涙かにはたずみながるる水はますばかりにて」

544
5
令和四年五月
立夏
文机映る緑のかぜにゆれ葉擦れさやけき夏は来にけり
三猿
さやかな風が吹いて夏を知るのはいいが、全体的に修飾語が多く情景を想起しずらい。「ゆれ」「葉擦れ」が耳に障る印象。文机という題材はいいので使いたいが、風と取り合わせづらい。例えば…「文台にうつるみどりのかげみれば木の葉茂るる夏は来にけり」

「文机映る緑のかぜにゆれ葉擦れさやけき夏は来にけり」

判者評:さやかな風が吹いて夏を知るのはいいが、全体的に修飾語が多く情景を想起しずらい。「ゆれ」「葉擦れ」が耳に障る印象。文机という題材はいいので使いたいが、風と取り合わせづらい。例えば…「文台にうつるみどりのかげみれば木の葉茂るる夏は来にけり」

545
5
令和四年五月
立夏
春も過ぎ袖のしがらみいかにせむ結び葉ほどく夏風にとふ
三猿
聞いてことがないおもしろい表現「袖のしがらみ」だが、具体的にイメージできないのが残念。複雑に行き詰った恋の譬えか? その行方を「結び葉ほどく夏風にとふ」という趣向だが、これは「夏風が結び葉ほどく」という前提が必要、これを共通理解しているかとえば、難しいのではないか。

557
5
令和四年四月
三月尽
仁和寺の春のとぢめの泣き桜散らば鶯鳴きて帰らむ
三猿
歌枕『仁和寺』が興味をそそられる(桜の名所、宇多天皇、覚法法親王と和歌のゆかりも深い)。『とぢめ(終わり)』。ただ『泣き桜』とは何か? 演歌っぽい。花が散ったら鶯が鳴いて帰るだろうと、趣向もいまいち。うぐいすが鳴いて(泣いて)帰るということか? 例えば…『花ぞなき春のとじめの仁和寺に鳴くうぐひす(憂く、沾す)とてや鶯の鳴く』

558
5
令和四年四月
三月尽
うらめしく桜を散らす風にさえ柳葉ゆらすこころありけり
三猿
着想がいい。ただ散らすだけではない風の二面性。このように受け取れるのは、風に揺れる柳は美しいというこころが前提にある。

「うらめしく桜を散らす風にさえ柳葉ゆらすこころありけり」

判者評:着想がいい。ただ散らすだけではない風の二面性。このように受け取れるのは、風に揺れる柳は美しいというこころが前提にある。

575
5
令和四年三月
春興
満開の撓(たわ)む一枝風にゆれ散りゆくまでの一場の夢
三猿
枝がたわむまでの満開の桜が見事。しかしそれは夢である、夢のなかのクライマックス。栄枯盛衰は表裏一体であるという表現。

「満開の撓(たわ)む一枝風にゆれ散りゆくまでの一場の夢」

判者評:枝がたわむまでの満開の桜が見事。しかしそれは夢である、夢のなかのクライマックス。栄枯盛衰は表裏一体であるという表現。

576
5
令和四年三月
春興
ちはやぶる春日の杜に流れ入る霧に溶けこむ梅の残り香
三猿
新奇で面白そうな趣向だが、絵がはっきりしない。作者の狙いが掴みづらい歌。ちなみに和歌では春は霧でなく霞となる。

「ちはやぶる春日の杜に流れ入る霧に溶けこむ梅の残り香」

判者評:新奇で面白そうな趣向だが、絵がはっきりしない。作者の狙いが掴みづらい歌。ちなみに和歌では春は霧でなく霞となる。

589
5
令和四年二月
立春
巨勢山の蕾紅梅染め出せば春への息吹裁ちて咲かせり
三猿
蕾紅梅は紅梅の蕾ということか、倒置する必要はない。「たつ」が掛け言葉になっているか? 春への息吹を絶ってということ? 「咲かせり」とはなにか? 意味がわかりづらい

590
5
令和四年二月
立春
春立ちて帰らぬ波を呼び戻す霞は深き志賀の唐崎
三猿
歌枕が詠まれており、このような試みはぜひ取り組んでほしい。歌は意味深、なぜ帰らぬ波を呼び戻すのか、春が来て霞立つのを待っていたのではないか? おそらく「志賀の唐崎」に意味がある。天智天皇の近江大津宮の思慕、いわゆる人麻呂的詠嘆だろう

601
5
令和四年一月
冬、年明く
茶畑にしんしんと積むぼたん雪白ききざはし山にかけらる
三猿
茶畑のこんもり連なるさまを階に見立てた、ユニークな風景。実景であるならば素晴らしいたたごと歌。「かけらる」は他動詞となり、主体はぼたん雪、とした場合、雪の個性を出せればさらに面白いか「われさきと降る」

602
5
令和四年一月
冬、年明く
事始め結露流るる窓を背に柄杓持つ手の舞いを見るかな
三猿
茶の湯のことはじめ。柄杓の仕草を手の舞と見立てた妙なる一首

626
5
令和三年十一月
九月尽
募る思ひ紅葉のごとく散り積もる秋の終はりに誰ぞ吹き去る
三猿
恋の思いが募ってあふれそうな歌。それをだれが吹き去ったのか、とするのは少し違和感。「誰のために散り積もったのか」とすれば面白い。例えば…「陸奥のしのぶもじずり誰ゆえに乱れそめにしわれならなくに」の連想から「もみじ葉の色に染まりて誰ゆえに散ぞ積もりしけりわれならなくに」

627
5
令和三年十一月
九月尽
あけぬれば今宵かぎりの秋の月尽きせぬ言葉露と消えつつ
三猿
何が「あけた」のかわからない。「秋されば」とくれば、「飽きがきた」となって、見事な空しき和歌らしい恋の歌となる。

630
5
令和三年十月
秋の風景
役終えて土にかえらむひぐらしをつつみこむかな秋の夕暮れ
三猿
空蝉(ぬけがら)ではなく、日暮というのが面白い。なんの「役」か?「鳴き果てて」くらいがいいだろう。四句目で切れると結句の座りが悪い。「つつみこむ」は古語らしくない、「つつみ迎ふる」とかしてはどうか

「役終えて土にかえらむひぐらしをつつみこむかな秋の夕暮れ」

判者評:空蝉(ぬけがら)ではなく、日暮というのが面白い。なんの「役」か?「鳴き果てて」くらいがいいだろう。四句目で切れると結句の座りが悪い。「つつみこむ」は古語らしくない、「つつみ迎ふる」とかしてはどうか

631
5
令和三年十月
秋の風景
秋深し紅葉いろどる庭のおも綴れさしてふきりぎりすかな
三猿
イメージが広がる面白い趣向にみえるが、やはり分かりづらい。声が落ち葉を綴る? むりがあるなら落ち葉の庭に「鳴き渡りつる…」とかしてはどうか

「秋深し紅葉いろどる庭のおも綴れさしてふきりぎりすかな」

判者評:イメージが広がる面白い趣向にみえるが、やはり分かりづらい。声が落ち葉を綴る? むりがあるなら落ち葉の庭に「鳴き渡りつる…」とかしてはどうか

632
5
令和三年十月
秋の風景
寺参り枯れ葉舞い散る門前の仁王が見下ろすせみの抜け殻
三猿
無常の象徴を仏法を守護する神が見下ろすという内容。怖い顔というより優しい顔だったかもしれない。「秋(中)」の題では少し遅いか、「寺、門前、仁王」と重複するので、「寺」がなくてもよい

643
5
令和三年九月
虫の音にさそわれ歩く萩の道見上げる空に有明の月
三猿

「虫の音にさそわれ歩く萩の道見上げる空に有明の月」

判者評:

644
5
令和三年九月
初秋
秋時雨飛びたてもせずひぐらしの短き命ひと鳴きぞ待つ
三猿

651
5
令和三年九月
初秋
いつからか枕定めぬ秋風にあはれ今宵もひとりかも寝む
三猿

654
5
令和三年八月
夏暮れて鴨川べりに灯がともるお囃子流るる川床の夢
三猿

「夏暮れて鴨川べりに灯がともるお囃子流るる川床の夢」

判者評:

657
5
令和三年八月
梅雨あけて掻いはなしたるわが庵にまよひこみたるこがねむしかな
三猿

661
5
令和三年八月
七夕
七夕で短冊結ぶ幼な子のゆかたのすそにあきかぜそよぐ
三猿

「七夕で短冊結ぶ幼な子のゆかたのすそにあきかぜそよぐ」

判者評:

662
5
令和三年七月
てっせんとならんで咲きしあさがおはまきつく枝の行方も知らず
三猿

667
5
令和三年七月
夕月にてらされうかぶすずみ船ふなべりたたくよせるさざ波
三猿

「夕月にてらされうかぶすずみ船ふなべりたたくよせるさざ波」

判者評:

669
5
令和三年七月
かがり火のもえつきるまでのえにしとて月は残れり沖の釣舩
三猿