日本人なら覚えたい有名な和歌・短歌 グレイテスト・ヒッツ10!

「やまとうたは、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」
古今和歌集(仮名序)

紀貫之による『古今和歌集』仮名序、その冒頭にある名文句です。

人の心から生まれる和歌は、まさに数えきれないほど詠まれてきました。

今回はその膨大な作品群の中から、和歌ファンのみならず、多くの日本人に影響と感動を与えた超有名歌――いわば「グレイテスト・ヒッツ」――を十首選んでご紹介します。


1.八雲立つ出雲八重垣妻籠みに 八重垣作るその八重垣を(須佐之男命)

天皇家の祖神・天照大神の弟であり、八岐大蛇退治で知られる須佐之男命(スサノオノミコト)の歌です。

須佐之男命が八岐大蛇を退治したのち、櫛名田姫との新婚の宮を建てる際、何重にも雲が立ち上ったのを見て詠んだと伝えられています。

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この歌は、和歌の起源であると『古今和歌集』仮名序に記されています。

「あらからねの地にしては、須佐之男命よりぞおこりける。ちはやふる神代には歌の文字も定まらず、すなほにしてことの心わきがたかりけらし。人の世となりて、須佐之男命よりぞ、三十文字あまり一文字はよみける。かくてぞ花をめで、鳥をうらやみ、霞をあわれび、露をかなしぶ心言葉多く、さまざになりにける」

西洋クラシック音楽が古典派によって「ソナタ形式」を確立し、そこから交響曲や協奏曲といった偉大な作品が生まれたように、
和歌もまた「三十文字あまり一文字」という形式が定まったことで、日本人共通の文芸としての歴史が始まりました。

これはまさに、和歌史における金字塔というべき一首です。


2.ひむがしの野にかぎろひの立つ見えて かへり見すれば月かたぶきぬ(柿本人麻呂)

東の野に陽炎が立ち、太陽がいままさに昇ろうとする。
振り返れば月が沈もうとしている。

雄大で写実的な詠みぶりは、まさに『万葉集』を代表する風格です。
詠み人は、紀貫之や藤原俊成をして「歌の聖」と讃えられた柿本人麻呂。

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人麻呂は、和歌史における最も偉大な人物です。
宮廷歌人として君侯に捧げた優美な歌はもちろん、自らの妻に寄せた悲劇的な絶唱など、あらゆるジャンルの歌を残しました。

それは写実的な万葉風もあれば、観念的で複雑な古今風の歌もあります。
まさに「歌の聖」にふさわしく、今に残る和歌という文芸のほとんどを一人で形作ったのです。
例えるなら、音楽の父バッハが成した偉業に匹敵するといってよいでしょう。

ちなみにこの歌は、昇る太陽を軽皇子に、沈む月を亡き草壁皇子に譬えています。
草壁皇子は天武天皇の息子でありながら、即位することなく28歳の若さで早世しました。
人麻呂は若々しい軽皇子に次代の希望を感じながらも、無念の草壁皇子に心を寄せているのです。

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3.唐衣着つつなれにしつましあれば はるばきぬる旅をしぞ思ふ(在原業平)

六歌仙の一人であり、稀代のプレイボーイ・在原業平の歌。
京から遠く旅をしながら、愛しい妻への思いを詠んだものです。

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詠まれたのは『伊勢物語』第九段「東下り」の有名な場面です。

「三河の国、八橋といふ所にいたりぬ。その沢に、かきつばたいとおもしろく咲きたり。かきつばたといふ五文字を句の上に据ゑて、旅の心をよめ」
(伊勢物語 第九段)

各句の頭を読むと「か・き・つ・ば・た」となっており、これは「折句」と呼ばれる技法です。

さらに、掛詞が4箇所(着/来、馴れ/慣れ、褄/妻、張/遥)。
「衣」の縁語が4箇所(き・なれ・つま・はる)。
枕詞「唐衣」、そして「唐衣 着つつ」→「なれ」へと続く序詞。

和歌の修辞法がこれでもかと詰め込まれています。
あのパガニーニも腰を抜かすほどの超絶技巧です。

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4.花の色はうつりにけりないたづらに わが身世にふるながめせしまに(小野小町)

言わずと知れた六歌仙、小野小町の代表歌です。
百人一首にも採られ、この一首は『古今和歌集』――いや、和歌そのものを象徴する歌といっても過言ではありません。

花の中の花、桜。それは美の極致たる存在。
しかし無常は必定であり、桜とて老いて散る運命。
和歌とは、この「無常の美」を捉えようとする運動ですが、小町の歌はそれを見事に成し遂げています。

藤原定家はその歌論で「余情妖艶」こそが歌の核心であるとし、その規範を小町に求めました。
メンデルスゾーンの「ヴァイオリン協奏曲」に通じる洗練と優美。
これこそが和歌の到達点といえるでしょう。

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5.東風吹かば匂ひおこせよ梅の花 主なしとて春を忘るな(菅原道真)

菅原道真は大宰府天満宮に祀られ、学問の神様として広く知られています。
その学識の高さから宇多天皇に重用され、醍醐朝では右大臣にまで昇進しました。

しかし急激な出世は反感を招き、ついには大宰府へ左遷され、その地で没します。
この歌は、大宰府へ旅立つ折、屋敷の梅の木に語りかけるように詠まれたものといわれています。

ちなみに、この梅は主人を慕って遠く大宰府まで飛んでいったと伝えられます。
これが「飛梅伝説」です。
三大歌舞伎の一つ『菅原伝授手習鑑』も、この伝説を題材としています。

道真は、漢詩と和歌を融合し、新しい風を吹き込みました。
それはまるで、ドヴォルザークがボヘミアとアメリカ音楽を融合させたよう。

自らの漢詩集をいくつも編んだ道真は、漢詩の心を和歌に移した人でした。
そして彼の提言により遣唐使が廃止され、日本の「新世界」――国風文化が一気に花開いていったのです。

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6.袖ひぢてむすびし水のこほれるを 春立つけふ 風やとくらむ(紀貫之)

『古今和歌集』の代表的選者・紀貫之による、春上第二首の歌です。

季節は夏。袖を濡らしてすくった水が冬に凍り、そして立春の風がそれを溶かしている――。
この一首の中に、夏・冬・春という三つの季節が一巡しています。
わずか三十一文字で自然の循環を描ききるところに、貫之の構成美と理知が光ります。

勅撰和歌集の二大テーマは「四季」と「恋」です。
このうち「四季」は春夏秋冬の移ろい、「恋」は初恋から別れまでの過程に沿って配置されています。
撰者の仕事には歌の選定もありますが、実は歌の配列こそ腕の見せ所なのです。

しかし本来、四季の移ろいなどはとらえどころのないもの。
それを貫之たちは「美」という物差しで人工的に整理し、体系化してみせました。
これは音階(スケール)を作った理論家たちと同じ発想です。

音階を作ったのは作曲家ではなく、ピタゴラスやメルセンヌといった数学者でした。
貫之もまた、感性の人というより理知的な芸術家――いわば「日本美の設計者」だったのです。

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7.この世をばわが世とぞ思ふ望月の かけたることもなしと思へば(藤原道長)

時は西暦一千年。
『源氏物語』や『枕草子』など、女流文学が華やかに咲いた頃。

左大臣・藤原道長は、その長女・彰子を一条天皇の女御として入内させます。
当時、一条天皇にはすでに中宮定子がいたため、「一帝二后」という前例のない状況を生みました。

ちなみに、彰子には紫式部が、定子には清少納言が女房として仕えています。
道長はさらに次女の妍子を三条天皇に、四女の威子を後一条天皇に入内させ、「一家三后」を実現。
藤原摂関家は、ついに絶頂を迎えたのです。

この歌は、そんな絶頂期の道長が自らの栄華を誇らかに詠んだもの。
「この世をば、わが世とぞ思ふ」――もはやこの世に欠けるものはない、と。

悲哀や無常をしっとりと歌うのが主流の和歌にあって、
ここまで堂々とした全能感を歌い上げた例は極めて珍しいものです。

その雄大な響きは、まるでワーグナーの《ニュルンベルクのマイスタージンガー》。
まさに平安のマイスタージンガー・藤原道長が、満月の夜に朗々と歌い上げる――そんな情景が目に浮かびます。


8.瀬をはやみ岩にせかるる滝川の われても末に逢はむとぞ思ふ(崇徳院)

激流のような生涯。
たとえ岩に阻まれて流れが裂けても、いずれはまた一つに戻る――そんな希望を託した歌です。
まさに、崇徳院その人の生涯を映すような一首です。

この歌は、崇徳院が勅撰を命じた『詞花和歌集』の恋の部にありますが、
単なる恋歌としてではなく、運命そのものを詠んだ歌と見るべきでしょう。

崇徳院は、父である鳥羽上皇から「叔父子(おじご)」――つまり、祖父・白河上皇の子である待賢門院との間に生まれたと疑われ、疎まれました。
実子である体仁親王(のちの近衛天皇)が即位すると、崇徳院は皇太弟とされながらも院政を行えず、実権を失います。

やがて近衛天皇が崩御すると、崇徳院は自らの子・重仁親王の即位を画策しますが、叶わず。
後白河天皇が即位したことで、権力争いは頂点を迎えました。

鳥羽上皇の死後、天皇家・摂関家・武家の対立が一斉に噴出。
こうして起こったのが保元の乱です。
敗れた崇徳院は讃岐へ流され、二度と都の地を踏むことはありませんでした。
乱の八年後、四十六歳で崩御。
「われても末に逢はむとぞ思ふ」――その願いは、ついに叶うことはありませんでした。

『保元物語』には、讃岐での崇徳院の最期がこう記されています。

「彼の科(とが)を救はんと思ふ莫太の行業を、併三悪道に投こみ、其力を以て、日本国の大魔縁となり、皇を取て民となし、民を皇となさん」とて、御舌のさきをくい切って、流る血を以て、大乗経の奥に御誓状を書き付けらる。

崇徳院はついに“魔王”と化したのです。

それはまるでシューベルトの《魔王》。
身の毛もよだつ旋律に、抗えぬ運命が鳴り響く――。
一度耳にすれば決して忘れられない悲劇の調べです。

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9.願はくば花の下にて春死なむ その如月の望月のころ(西行)

鳥羽院の北面武士として仕えた佐藤義清(のりきよ)。
出家して西行と名乗った人物です。

藤原俊成を中心とする九条家歌壇と親交が厚く、『新古今和歌集』には最多の九十四首が入集。
平安末期を代表する歌人であり、数寄の人生を貫いた人物として松尾芭蕉など多くの芸術家に影響を与えました。

この歌は、僧でありながら最後まで「美」の理想を追い続けた彼自身のレクイエム。
それはモーツァルトのような悲壮ではなく、フォーレの《レクイエム》のような、静かな至福の開放感に満ちています。

藤原定家の私家集『拾遺愚草』によると、西行は願いどおり文治六年、桜満開の望月(満月)の日に入滅したといいます。
まさに「願わくば」の歌そのままに――。
その最期の美しさゆえ、西行は永遠の伝説となったのです。

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10.見渡せば花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮(藤原定家)

秋の夕暮に寄せる寂寥感――それは今も昔も変わりません。
この歌は、三夕(さんせき)の和歌として知られる一首です。

作者は『新古今和歌集』『新勅撰和歌集』の選者であり、のちの二条・京極・冷泉の三家を生んだ歌道家の祖、藤原定家。
まさに和歌史を貫く中心的存在です。

茶人・武野紹鴎が記した『南方録』によれば、この歌こそ「わび」の心を象徴しているといいます。
「ありやなしや」の美しさ――儚さの中に漂う静謐な余情。
全編がピアニッシモで奏でられるドビュッシー《月の光》のような世界です。

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アンコール

春の夜の夢の浮橋とだえして 峰にわかるる横雲の空(藤原定家)

定家は「本歌取り」を得意とした歌人です。
この歌は、壬生忠峯の「風ふけば峰にわかるる白雲のたえてつれなき君が心か」を本歌としながら、
『源氏物語』最終帖「夢の浮橋」の世界観をも重ね合わせています。

定家は本歌の世界観を幾重にも重ね、この世ならぬ幻想的な響きを奏でました。
まるでドビュッシーの《牧神の午後への前奏曲》のように、官能と夢想が入り混じる音の世界――。
彼の歌には、現実と幻想の境界がゆらめいています。

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須佐之男命の創唱から藤原定家の余情まで――。
和歌は、日本人の「心」の音楽であり続けてきました。
そしてその響きは、今もなお静かに、私たちの胸の奥で鳴り続けています。

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(書き手:内田圓学)

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