思いがけず“ある刺激”を受けて、ふと過去の記憶がよみがえった経験、みなさんもありませんか?
406「あまの原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも」(安倍仲麿)
安倍仲麿は「月」を仰ぎ見て、遥か遠い故郷へ望郷の念をはせました。
※仲麿は遣唐使として唐の地に渡り、以来50年そこで過ごし没したといいます
この「月」ように、ノスタルジーを喚起する景物を「追憶スイッチ」と呼ぶことにしましょう。
和歌ではこの「追憶スイッチ」が定型化されています。
例えば「撫子(なでしこ)」
695「あなこひし 今も見てしか 山がつの かきほに咲ける やまとなでしこ」(よみ人しらず)
「なでしこ」の響きが「子(女)」を強く連想させます。
こんなのもあります、「煙(けふり)」です。
新801「思ひづる をりたくしはの 夕けふり むせぶもうれし 忘れがたみに」(後鳥羽院)
荼毘の煙は、失った人の象徴として詠われました。
そして「追憶スイッチ」の最たるものが「花橘」です。
139「五月まつ 花橘の 香をかげば 昔の人の 袖の香ぞする」(よみ人しらず)
袖の香とは袖にたきしめた香(こう)の匂いです。花橘の香りを嗅ぐと、その匂いの人が思い出されるのです。
実は「花橘」、古今集の中で「追憶スイッチ」として詠まれているのはこの一首だけです。
しかし「昔の人の袖の香」のインパクトは多大だったようで、新古今集になると沢山の「花橘スイッチ」が詠まれています。
新240「かへりこぬ 昔を今と 思ひねの 夢のまくらに にほふ橘」(式子内親王)
新245「橘の にほふあたりの うたたねは 夢も昔の 袖の香そする」(俊成卿女)
新246「今年より 花咲きそむる 橘の いかで昔の 香ににほふらむ」(藤原家隆)
新247「夕暮は いづれの雲の 名残とて 花橘に 風のふくらむ」(藤原定家)
「匂う花橘」の大ブレイク!
その香りがするやいなや、反射的にノスタルジックに襲われるといった感じで詠われています。
平安歌人の極端な詠みぶりに唖然としつつも、なるほどという納得感もあります。
先の「月」「撫子」「煙」などは、「視覚」で呼び起こすスイッチでした。
一方の「花橘」。これはそう「嗅覚」で呼び起こすスイッチです。
実感としても、昔の人の例えば「写真」よりも「香水の匂い」の方がより強く懐かしさを感じさせはしないでしょうか?
人が受けとる情報のうち8割以上は視覚から得ている、なんていいますが、記憶を強く刺激するのは嗅覚だというのはなんだか不思議です。
さて、「視覚」「嗅覚」ときたら「触覚」や「聴覚」のスイッチはないのか?
と聞かれそうですが、もちろんあります。
「黒髪の 乱れもしらず うちふせば まづかきやりし 人ぞ恋しき」(和泉式部)
髪に残る愛しい男性の手触り…なんとも官能的な歌です。
145「夏山に なくほととぎす 心あらば 物思ふ我に 声なきかせそ」
「ほととぎす」は夏を代表する景物であり、その鳴き声は和歌を代表する「追憶スイッチ」です。
→関連記事「夏を独占! ほととぎすの魅力」
ではもし「花橘」と「ほととぎす」が同時に現れたら?
一体全体どんな郷愁に襲われるのか、想像だに出来ませんね。
そんな歌がこれです、
新202「雨そそぐ 花橘に 風すぎて 山ほとときす 雲になくなり」(藤原俊成)
もはや「思い出す」といった心情なんぞ詠む必要なし!
受け手によっていくらでも追憶世界が広がる、そんな歌になるのです。
(書き手:歌僧 内田圓学)
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