藤原俊成 ~和歌界のゴッドファーザー~

藤原俊成はかの歌人定家の父であり、後鳥羽院、式子内親王、藤原良経、俊成卿女といった新古今時代の主だった歌人の師匠であった人です。
さしずめ「和歌界のゴッドファーザー!」といったところですが、コルレオーネ家の御大とは違ってカリスマ的な物恐ろしさは皆無。むしろ争いごとが嫌いで気のいいジイさん「好々爺」といった人です。

鴨長明の歌論書「無名抄」には、俊成のこんなエピソードが残されています。
六条藤家を代表する歌人顕昭が言うには、俊成と清輔(こちらも六条藤家)の歌の判定は共に「偏頗」つまり“えこひいき”があると、ただその仕方が全く違って、清輔は判に文句を言われたりすると血相変えて論争してきた、しかし一方の俊成は世間の習慣だから、などと曖昧な言葉で紛らわせて論争することもなかったと。

「まあまあ、いいんじゃないの」と丸く収めようとする爺さんの姿が目に浮かびます。
ただこの「気のよさ」が、愛する我が子に向けられるとどうなるか?

息子定家が二十歳にして初めての百首歌「初学百首」を詠めば、父俊成は息子の才能を確信して大感激の涙を流す。
息子定家が宮中でケンカ騒ぎをおこし殿上から除籍されれば、父俊成は後白河院に許しを請う歌を送る。
息子定家が後鳥羽院主催の百首歌の出詠者から外されれば、父俊成は「正治奏状」なる嘆願書を何度も何度も院に送る。

目にも当てられぬ親バカぶりです、、、
ただ俊成のこの性格が、定家を代表する新風和歌を受容、育てたとも言えるのです。

歴史的な歌合と言われる「六百番歌合せ」。
これは歌の旧家「六条藤家」と新家「御子左家」の全面対決という様相でした。そしてこの判者が俊成。ちなみにこの時なんと御年八十歳! どう切り抜けたのか!? と心配になりますが、実はけっこう鮮やかに判じているのです。

例えば夏の十六番、お題は「夕顔」
左方 定家
「くれそめて草の葉なびく風のまにかきね涼しき夕顔の花」

定家のこの歌に対し、右方、六条藤家の経家は「くれそめて」「風のまに」なんて聞いたことがない! とケチをつけます。
これに判者俊成、
「聞いたことがないと右方人(経家)は言うけれど、、別に悪くないんじゃない」と一言。

前例に縛られず「まあまあ、いいんじゃないの」と、柔軟な発想ができる俊成という重鎮がいたからこそ、定家を代表する極めて前衛的な象徴歌が新古今和歌集に大成することが出来たのです。

そして俊成、締めるときは締めます、同じく六百番歌合この名文句

「源氏見ざる歌詠みは遺恨ノ事也」

歌人が源氏物語を知らないとは何事か! と一喝です。

「実況! 伝説の対決 六百番歌合」一覧

柔らかい中にも芯がある好々爺。俊成は崇徳院や後白河など歴々の君に慕われ、後鳥羽院には俊成90歳の折に祝賀会を大々的に催されています。

享年九十一歳。和歌界のゴッドファーザーは大往生したのでした。

藤原俊成の十首

(一)「あし鶴の雲ぢまよひし年くれて霞をさへやへだてはつべき」(藤原俊成)
この歌こそが愛する息子定家が宮中でケンカ騒ぎをおこした際、許しを請うため後白河院へ送った歌です。我が息子を葦辺の鶴に例えるとは、優雅とみるべきか滑稽とみるべきか…

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(二)「夕されば野べの秋風身にしみて鶉鳴くなり深草の里」(藤原俊成)
鴨長明の「無明抄」で、生涯の最高傑作と自画自賛した歌です。伊勢物語百二十三段の後日談を歌ったものですが、これを聞いた俊恵は「残念な歌」とバッサリ切り捨てます。

(三)「面影に花のすがたを先だてて幾重越えきぬ峯の白雲」(藤原俊成)
俊恵曰く、この歌があなたの最高傑作じゃないの? と無明抄で称えた歌です。

(四)「雨そそぐ花橘に風すぎて山ほとときす雲に鳴くなり」(藤原俊成)
新風の父の姿が、この歌にはあります。

(五)「伏見山松のかげより見渡せばあくる田のもに秋風ぞ吹く」(藤原俊成)
同じ「秋風ぞ吹く」でも、息子定家の「白妙の袖」の歌に比べると「田の面」なんてちょっと野暮ったいのもご愛敬。

(六)「かつこほりかつは砕くる山河の岩間にむせぶ暁の声」(藤原俊成)
氷っては砕け、砕けては氷る山川の水。思わず口にしたくなるほどリズミカルな歌です。
俊成は和歌を「歌」として、声に出して詠んだ際の美しさを重視しました。

「歌はただよみあげもし詠じもしたるに、何となく艶にもあはれにもきこゆる事のあるなるべし(略)」
(古来風体抄)

(七)「よしさらば後の世とだに頼めおけつらさにたへぬ身ともこそなれ」(藤原俊成)
妻となる美福門院加賀へ送った歌です。好々爺のイメージが強い俊成ですが、若く情熱的な時ももちろんあったのです。

(八)「思ひきやあるにもあらぬ身のはてに君なきのちの夢を見むとは」(藤原俊成)
この歌は後白河院がお隠れになった際に詠んだものです。俊成は後白河院に引き立てられ、第七勅撰集「千載和歌集」の選者となりました。源頼朝に「天下一の大天狗」と揶揄された後白河院ですが、俊成の目にはどのように映っていたのでしょうか。

(九)「老いぬともまたも会はむとゆく年に涙のたまを手向けつるかな」(藤原俊成)
また次の春に会おう! この気持ちが長寿の秘訣なのですね。

(十)「ゆくすゑは我をもしのぶ人やあらむ昔を思ふ心ならひに」(藤原俊成)
俊成亡き後、御子左家は定家、為家へと続きその子の代で京極家、二条家、冷泉家と三つに分裂。そのうち京極家、二条家は断絶しますが、冷然家はなんと今にも残っています。俊成の心配は杞憂だったようですね。

→「公益財団法人 冷泉家時雨亭文庫

(書き手:歌僧 内田圓学)

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