百人一首に採られなかったすごい歌人! 女性編(額田王、大伴坂上郎女、俊成卿女&宮内卿)

「伊勢の海、清き渚の玉は、拾ふとも尽くることなく…」(「新古今和歌集」仮名序より)
ではありませんが、百人一首に採られていなくとも、素晴らしい歌人はいくらでもいます。

今回は残念ながら百人一首には採られませんでしたが、個人的に大好きな歌人を男女三名ずつご紹介しましょう! 今回はその「女性編」です。

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額田王

まずはわが国の女流歌人のさきがげというべき人「額田王」です。下照姫や磐姫皇后など、先んじて名が残る歌詠みの女性もいますが彼女達はいわば伝説的な存在、史実において見事な歌を残した最初の女性はといえばやはり額田王で間違いないでしょう。

ところで額田王ですが名前に「王」なんてあるため、つい勇ましい男性を想像してしまいませんか? しかし歌をみればわかりますが女性しかもモテモテです。皇室の一員もしくは地方豪族の出身であるため「額田王」の名で通っていたようです。

「あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」(額田王)

額田王の代表作というべき歌、万葉集は知らなくてもこの歌を知っている人は多いのではないでしょうか。
先ほどの“モテモテ”というのはこの歌からの妄想なのですが、詠みかけた相手はなんと大海人皇子のちの天武天皇となるお方、実は額田王、大海人皇子の妃であり十市皇女という娘をもうけていました。しかし、なんやかんやで皇子の兄である中大兄皇子(後の天智天皇)の寵愛を受けたあげくその妻となるのです。驚くべき万葉の恋愛関係! 「野守は見ずや」は人妻となった額田王に対し寝取られた?大海人皇子が再び誘うように手を振ってきたので、ピシャリと戒めたという歌なのです。

ちなみに万葉集にはこれに答えた大海人皇子の歌が載っています。

「紫のにほへる妹を憎くあらば人妻故に吾恋ひめやも」(大海人皇子)

遠まわしに、いくら人妻(兄貴の妻)になったとはいえ俺はお前が好きだ!と皇子は大胆な告白をしています。実のところ二人のこのやり取りは宴席の戯れだったといわれていますが、壬申の乱(大海人皇子と天智天皇の息子である大友皇子による内乱)は額田王をめぐる遺恨に原因があった、なんて説もあったりして、安易には笑い話にできません。

さて、先の強烈なインパクトの歌にみえるように、額田王は当時の宮廷において圧倒的な存在感を放っていました。

「秋の野のみ草刈り葺き宿れりし宇治の宮処の仮廬し思ほゆ」(額田王)

この歌は皇極天皇の代作として万葉集に載ります。実はこの歌、万葉集巻一の第七番歌なのです。万葉集の巻一、二は時系列に歌が採られていますから、額田王が宮廷歌人のさきがけであったことがよくわかります。柿本人麻呂や大伴家持という万葉を代表する歌人だって額田王よりもっと後の人なのです。

「熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」(額田王)

西暦660年、新羅と戦争状態にあった百済は日本に支援を要請、中大兄皇子は応じて朝鮮半島に向け出兵します。額田王はこれに従軍し途中、熟田津(愛媛県)でこの歌を詠みました。「今こそ出陣の時が来た!」、これも斉明天皇(皇極天皇の重祚)の代作であったかもしれませんが、男顔負けの勇ましさは平安の女性にはまったくないものです。

わずか三首でしたが額田王という女性の個性が十分に伝わったのではないでしょうか。実のところ額田王が万葉集に残した短歌は十首に満たないのです。それでも額田王がこの集を代表する歌人に挙げられるのは、いかにもその時代らしい大らかな詠みぶりと、なにより皇室の面々に深く寄り添った最初にして最大の歌人であったからです。

大伴坂上郎女

万葉集でもっとも歌が採られた女流歌人をご存知でしょうか?
それがこの人、大伴坂上郎女です。

柿本人麻呂や山上憶良に匹敵する長短合わせて八十首強の歌が入集し、その巧みな恋(相聞)歌は女流歌人の元祖というべき存在! 坂上郎女はその名が示すように、大伴旅人の異母妹であり大伴家持の叔母であった人です。おそらく一族のキーマンだったのではないでしょうか? 彼女がいなければ大伴歌壇の隆盛も非凡な歌人家持もそれこそ万葉集だって生まれなかった、なんて私は思ったりします。

坂上郎女の恋歌は非常にユニークで、小野小町に代表される平安以後の女流歌人とは趣がだいぶ異なります。例えば、、

「来むと言ふも来ぬ時あるを来じと言ふを来むとは待たじ来じと言ふものを」(大伴坂上郎女)

「愛しいあなたは来ようといって来ない時があるのに、それが来ないって言ってるんだから来るのを待ったってしょうがない。だって来ないっていってるんだから」

言ってることは分かるんですが、文字にするとなんだか分かりにくいこの歌。これは万葉の歌がまさしく口から出る「歌」だったということです。平安の恋歌では決してみられない表現ですが、私はすごく好きです。

「夏の野の繁みに咲ける姫百合の知らえぬ恋は苦しきものを」(大伴坂上郎女)

坂上郎女の恋歌がすごいのは、バリエーションが非常に豊富だということ。「繁みに咲ける姫百合」なんて、平安の女流歌人にも通じる素敵な序詞だって詠むのです。きっと小町も伊勢も、坂上郎女を目指していたのでしょう。

「黒髪に白髪交じり老ゆるまでかかる恋にはいまだ逢はなくに」(大伴坂上郎女)

坂上郎女は老いてもなお盛ん。私、今までこんな恋したことない! この情熱は、和泉式部もきっとビックリです。時折見せるこのエモーショナルな歌風が、坂上郎女ひいては万葉歌の魅力です。

俊成卿女&後鳥羽院宮内卿

「俊成卿女」と「宮内卿」は後鳥羽院の女房歌人として活躍し、当時の歌壇に一代ムーブメントを起こした名立たる女流歌人です。

「増鏡」や「無名抄」(鴨長明)にも伝説的なエピソードを残しており、「祐子内親王家紀伊」や「皇嘉門院別当」を採るくらいなら、なぜこの二人を採らなかったのか? と定家を問い正したいと思うほどの二人です。ましてや俊成卿女なんて定家の姪なんですから。

俊成卿女と宮内卿はともに後鳥羽院に抜擢されたことや、うらはらな歌風もあいまって当時からよく比較されてきました。例えば鴨長明の「無名抄」には、

「今の御所には、俊成卿女と聞こゆる人・宮内卿とこの二人の女房、昔にも恥ぢぬ上手どもなり。歌のよみやうこそ、ことの外に変りて侍りけれ」
無名抄(第66話)

なんて一文も見えます。

そこではさらに、俊成卿女はもろもろの歌集をくまなく見た後それらを捨て静かに詠歌した、一方の宮内卿は歌集を手元に置き、とりあえずメモを書きつけて夜も昼も怠らずに詠歌に励んだ、と対照的に描かれています。

しかしこの心労が祟ってか、宮内卿はわずか二十歳にして亡くなってしまいます。俊成卿女が八十歳まで長寿を保ち、歴々の歌壇で活躍したのとは正反対です。

とにもかくにも貫之と躬恒がごとく、新風の凄腕歌人として比較されてきた二人の歌を見てみましょう。

「風かよふ寝覚めの袖の花の香に香る枕の春の夜の夢」(俊成卿女)

まさに妖艶を突き詰めたような歌。これが「恋」ではなく「春」の歌だっていうから驚きです。

「あくがれて寝ぬ夜の塵の積もるまで月に払はぬ床のさむしろ」(俊成卿女)

さすが御子左家の名を背負う歌人、新古今の新風を完全にその手中にしています! 叔父にあたる定家としては、同門の頼もしさよりも脅威の方が先立っていたのかもしれませんね。

「面影のかすめる月ぞ宿りける春やむかしの袖の涙に」(俊成卿女)

俊成卿女に料理されれば、業平の本歌もかすんでしまいます。そんな模糊とした妖艶な雰囲気が、彼女の歌からは溢れ出ています。

「うすくこき野辺のみどりの若草に跡までみゆる雪のむら消え」(後鳥羽院宮内卿)

初春の野辺の叙景歌です。雪が溶け行く様を「うすい、こい」という表情で捉えた斬新な歌です。この感性にオジさん歌人たちは驚嘆したのでしょう。これ以後宮内卿は「若草の宮内卿」と評されるようになります。

「花さそふ比良の山風吹きにけり漕ぎゆく舟のあと見ゆるまで」(後鳥羽院宮内卿)

山吹の花を、その花ではなく湖の一面に落ちてかつその上を船が通り過ぎて残った後で示す!
宮内卿の恐ろしいまでの観察眼に感服しました。

「霜を待つ籬の菊の宵のまにおきまよふ色は山の端の月」(後鳥羽院宮内卿)

躬恒の「初霜の置きまどはせる白菊」にさらに光を添えた、いわば究極の美の歌です。

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妖艶な恋の歌と、鋭敏な四季の歌。曖昧と明瞭。俊成卿女と宮内卿の歌風は、まったく違うことが分かります。この二人が百人一首に採られていれば、集の印象も随分変わったことでしょう。

(書き手:歌僧 内田圓学)

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